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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

漢王朝は日本の大和政権に相当し、劉一族は日本の皇室に相当

これもウィキペディアからの転載だが、要するに、「春秋」「戦国」時代は群雄割拠時代だから、統一王朝は無く、「秦」が最初の統一王朝となるが、あっと言う間に滅亡し、しかも「厳しい法治主義」が後の儒家などから批判されたことによって、秦は歴史上の「悪役」になってしまった。秦の滅亡後に漢楚の争い(項羽と劉邦の争い)があって、それに勝った劉邦が前漢を打ち立て、長期政権となった。これが、日本で言えば、「大和朝廷」のようなものであり、劉家が「皇室」となったわけである。とすれば、その「皇室」を簒奪した王莽が悪役にされるのは当然だったかもしれない。そして、その王莽の「新」から再び支配権を取り戻した漢「皇室」が中国史の主人公となったわけである。
このように、漢(劉家)を中国の「皇室」だと考えれば、中国人の漢王朝びいきも理解できるのではないだろうか。ただし、その中身がいい加減で、本当に漢王朝の血筋のものが皇帝になってきたかどうかは分かったものではない、というのも日本の皇室と同様である。
ただし、私自身は日本の皇室や天皇には漢王朝以上の高い政治的価値があると思っている。その出自や「萬世一系」はかなり疑わしいにしても、揺るぎの無い「権威」が政治的「権力」と屹立対抗している政治システムは、日本以外にはほとんど無い、(英王室は道徳性が完全に欠如している点で、権威たりえない。)世界的に見てもかなり優秀なシステムだと思う。



漢の劉氏[編集]

前漢の劉氏[編集]

前漢の劉氏の起こりは、の農民の生まれである劉邦が、始皇帝死後の混乱に乗じて台頭し、勢力拡大、宿敵である項羽を討って前漢)を建てたことに始まる。以来、劉氏は漢の皇室として存続した。しかし、外戚であった王莽が前漢最後の皇帝孺子嬰より禅譲を受けると、皇室としての劉氏は一旦は滅亡した。劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があった。司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して銭大昕は「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓がわかるだろうか」と述べている。正史とされる史書の中では『漢書』と『新唐書』が劉邦の出自に言及している。

贊曰:《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸於晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲於魏。秦滅魏,遷大梁,都於豐,故周巿說雍齒曰:「豐,故梁徙也。」是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,德祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火德,自然之應,得天統矣。(以上、『漢書』高帝紀第一より)

劉氏出自祁姓。帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蔿。蔿生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上、『新唐書』表第十一より)

後漢の劉氏[編集]

前漢に代わって建てられた王莽のは民心をつかめず崩壊し、前漢の皇室の傍系出身であった劉秀が光武帝として即位し、後漢を建てた。前漢の劉氏の後裔であるが、前漢の皇族を冷遇したとされる。

蜀漢の劉氏[編集]

後漢の滅亡後、(曹魏)・(孫呉)・蜀(蜀漢)の三国が覇権を争う三国時代となった。このうち蜀漢を建てた劉備は、前漢景帝の第8子である中山靖王劉勝の庶子、陸成亭侯劉貞の直系の末裔と称した[1][2]

その他の劉氏[編集]

漢王朝の滅亡後は、南北朝時代(劉宋)の劉裕が劉邦の弟である楚元王劉交の子孫を称したほか、後述の様にいくつかの非漢族の王族が漢姓として劉氏を称している。まず前趙を建てた劉淵を始めとして前漢・後漢時代に漢の皇族と通婚関係を持った匈奴単于一族(攣鞮氏)の末裔が漢室の正統後継者を自負して劉氏を名乗っている。さらに下って五代十国時代後漢を建てた沙陀人劉知遠が劉氏の子孫を名乗り、契丹)の耶律氏も劉氏と称している。前述同じ五代十国時代のアラブ系とされる南漢劉龑も劉氏と称している。

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