正教の思想
メモである。「混沌堂主人雑記」所載の文章の一部。
正教(ギリシア、ロシア)の思想がどういうものか分からなかったので、役に立ちそうだ。
私が通常のキリスト教の教えの中で一番馬鹿げていると思っている「原罪」について、正教が否定しているのは興味深い。
「神に背くことが最大の罪である」というのは、新約聖書の中のキリストの教えの最大のポイントだろう。つまり、正教はキリストの思想を正確に受け継いでいると言えそうだ。また、旧約(つまりユダヤ教)とキリストが正教では切り離されている感じで、それは「キリストが言いたくても言えなかったこと」を顕示したようにも思える。つまり、キリストは「私の父(神)の教えはユダヤ教のラビたちが言っているようなことではない」と思っていたのではないか。だから、当時のユダヤ教徒たちに殺されたわけだ。で、キリストの死後に誕生したローマ教会は神をむしろユダヤ教的な「懲罰の神」として、キリスト教を変質させたわけである。
(以下引用)
正教(ギリシア、ロシア)の思想がどういうものか分からなかったので、役に立ちそうだ。
私が通常のキリスト教の教えの中で一番馬鹿げていると思っている「原罪」について、正教が否定しているのは興味深い。
「神に背くことが最大の罪である」というのは、新約聖書の中のキリストの教えの最大のポイントだろう。つまり、正教はキリストの思想を正確に受け継いでいると言えそうだ。また、旧約(つまりユダヤ教)とキリストが正教では切り離されている感じで、それは「キリストが言いたくても言えなかったこと」を顕示したようにも思える。つまり、キリストは「私の父(神)の教えはユダヤ教のラビたちが言っているようなことではない」と思っていたのではないか。だから、当時のユダヤ教徒たちに殺されたわけだ。で、キリストの死後に誕生したローマ教会は神をむしろユダヤ教的な「懲罰の神」として、キリスト教を変質させたわけである。
(以下引用)
正教に原罪はない。
原罪による堕落説、
ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も西方ヤソ思想であり
正教にはなし!
西方キリスト教=ヤソ教。
ギリシア語ではなく誤訳ありのラテン語訳をスタンダードにしたり、
五大総主教はすべてゴッドの下に平等でないといけないのに教皇制度を創作したりするなど
一神教基本的規則(聖典は原語で読まないとダメ、聖典に根拠がない法制度を作るな)を否定しまくっている。
ローマのカトリックが病んだ原罪教義を創った主な原因の一つは
五大総主教区の重要度ランキングの一位がローマだったが
そこから転落したことによる劣等感だろう。
原罪による堕落説、
ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も
西方ヤソ思想であり、
正教は否定。
プロテスタントも聖書第一主義のくせに聖書原典を牧師が読めなくても構わないうえに歪んだ原罪思想を継承する宗派(カルヴァン派は悪化させた)がある。
翻訳しても真意は伝わるって? 伝わってねーじゃん。あとゴッドの真意なんて人間にわかるわけねーだろ。
真意を推測して近づくことはできる。
)
オンライン伝道会「活ける神」 7
正教会は原罪をどう捉えるか?
https://www.youtube.com/watch?v=cHSgDKTDXvU
(「正教会には原罪という考えはない」は誤りで、
「西方教会の原罪への理解は正教会の理解とは同じではない」なら正しいらしい。
(
「原罪」はないっていうのは、西方教会的な原罪という意味だもんな(私もそういう意味で使っている)。
「陥罪」という単語を誤解を避けるために使う場合がある。
上記の正教の罪の思想の記事を要約して補足するなら、
「西方キリスト教ではアダムの罪(原罪)の結果、厳しい神の罰をも全人類が受け継いだと強調する
(原罪への罰も受け継いだ)。
が、正教では、人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿だと考える
(アダムの罪〔いわゆる原罪〕はあり、ゴッドの罰もなされたが、その罰は子孫には受け継がれない。
要は、先祖の罪は消せないし、その影響〔似姿の破損〕は受けるが、罰までは受け継がれない)。
」
まともだな、正教の方は。
)
正教会の教え
https://www.romaniatabi.jp/more/orthodox/religion3.php
”神様は、「聖伝」をとおして、特に聖書をとおして、私たち人間がいかに神様に背いているかを教えておられます。神に背くことを罪と言います。「罪」と訳されるギリシヤ語は「ハマルティア」と言い、「的を外す」という意味をもっています。人間があるべき姿を失うことは罪であり、なすべきことをせず、してはならないことをすること(実際の行動においてだけでなく心の面においても)が罪です。すなわち「罪」とは、単に国の法律を破るとか、道徳上許されないことをするとか、マナーを守らないなどということ以上のことを指します。心の中で悪意をもつことや、プライドをもち自己中心になること、神の教えとは全く逆の生きかたを続けること、何よりも神ご自身を無視してしまうことが「罪」です。
旧約聖書によれば、人間は神に似せて造られました。言い換えれば、神は人間に自由意志を与えました。この自由意志によって神に従順に従うことが人間のあるべき姿です。しかし、最初に造られた人間アダムは、神の意志に背く不従順の道を自由意志によって選択してしまいました。
創世記には、「善悪を知る本」の実を食べると神にようになれる、という蛇の誘惑によって、アダムとエワが陥罪したと記されています。神は「善悪を知る本の実を食べてはならない、それを食べた日には、あなたは死んでしまう」と言いました。「食べる」とは「生きる」という意味です。「善悪を知る本の実を食べる」というのは、「自分が神様になったかのように錯覚し、善悪を知ったつもりになって真実の神を無視するような生き方をする」という意味です。しかし、アダムとエワは、神の言葉ではなく、蛇(悪魔の象徴)の言葉を信じてしまいました。生命の源である神と分離する生き方を、自分で選んでしまった人類は、死ぬものとなってしまいました。死は罪の結果であり、神様が最初から意図されたことではなく、人間の自由意志によってもたらされた不条理なのです。
聖書において、すなわち正教会において、罪、悪、魔苦難死という事項はすべて一つのものと見なされます。罪とは悪であり、それは悪魔によって人間にもたらされ、そしてその結果、苦難や死が生じたからです。
三位一体に似せて造られた人間は、多くの個でありながら一つのものです。つまり、アダムと私たちは一つのもの一体のものなのでアダムの罪は私の罪、私の罪は人類の罪です。人は、罪の蔓延する世の中に人間として生まれます。しかし、西方で発展したキリスト教であるカトリックやプロテスタントでは、アダムの罪の結果、厳しい神の罰をも全人類が受け継いだと強調します。人間は生まれながらにして罪人であり、罪人である以上、神の裁きと罰を受けるものであるとし、全く自由意志の力を失ったと教えます。正教会はこのような「原罪」と呼ばれる考え方を否定します。アダムとエワによって神の似姿は壊されてしまいましたが、まだかろうじてその似姿(神の像)は残っていて保持されている、と正教会は教えます。どんな人間でも、まずはそこに「神の像」を見るべきです(ただしそれが破損していることも事実です)。人間に残された神の像は、神を求める自由意志を弱いけれども持っています。人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿です。しかし、神に従うか従わないかの自由意志は、私の選択権として最後まで残されていますが、人間が自分の努力によって、破壊された神の像を回復することは不可能となりました。 「罪」というものをどうとらえるかによって、「救い」についてのとらえ方が変わってきます。
西方教会では、「原罪」の考え方から、全人類に対する神の罰をハリストスが身代わりに受けてくれたことによって救われると強調します。つまり十字架を、全人類のため、私たちの代わりにハリストスが引き受けてくれた刑罰だったと解釈します。私たちはそのままでは全員地獄行きだけども、私にはその刑罰に耐える力はないので、ハリストスが身代わりになってくれたというわけです。確かに、聖書には、「苦難の僕」という有名なイサイヤの預言があり、そこには、人々の罪を引き受けて受難するメシアの姿が記されています(53章)。正教会でも、この「苦難の僕」は、ハリストスを指すと解釈します。しかし、ハリストスは罪だけではなく、私たちのすべてを引き受けて十字架にかかったことを見落としてはなりません。では、正教会の教える「救い」とは何でしょうか。「罪」が「あるべき姿を失う」ことであるなら、「救い」とはそれを取り戻すことです。「罪」が神との分離、神の像の破損であるなら、「救い」とは神との一致であり、神の像の回復です。「罪」が悪魔、苦難、死と一つのものなら、「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。これらすべてを、私たちのためになさったのが、人となった神ハリストスの十字架と復活です。神が私だちと同じ人間になったという「籍身」によって、すでに私だちと神との一致の道が開かれました。完全な神の像であるハリストスによって、私たちの神の像は回復されます。そして私たちがどうしても通らなければならない死という究極の不条理を、ハリストスはご自分の死と復活によって、敗北させました。
正教会では「ハリストス、死より復活し、死をもって死を滅ぼし」と復活祭の時に歌います。かリストスの死と復活は、死の本質を変容させました。死はもはや不敗の敵ではなくなりました。死を滅ぼすハリストスの十字架は、悪魔の敗北でもあります。ハリストスの十字架は、復活の印です。ハリストスの十字架は勝利の旗です。ハリストスの十字架は生命を与える力です。洗礼を受けるということは、救いを与える十字架と復活のハリストスと一つに結び合わさるということなので、「信経」で「我、認む、一の洗礼、以て罪の赦を得る、を、」と言います。もちろん究極的にこのハリストスの「救い」をいただくか拒絶するかは、私たち一人一人の意志にかかっていますが、「救い」は人の努力によってではなく神によってのみできることを忘れてはなりません。
”
PR