推測と断定
正義という概念は人類の文明が発祥したころには生まれていただろうに、その起源が不快や嫌悪で他者を攻撃する正当化のための後付けの理屈だと断言できるその神経が凄い。
こういう場合は、「~だと私は考えている。」と書くべきだろう。下のツィートのような書き方を見ただけで、この人のすべての発言への信頼感が失われるのではないか。
こういう場合は、「~だと私は考えている。」と書くべきだろう。下のツィートのような書き方を見ただけで、この人のすべての発言への信頼感が失われるのではないか。
山本貴嗣さんがリツイート
不快や嫌悪が正義に接続される危険性というより、そもそも正義という概念自体が不快や嫌悪で対象を攻撃することを正当化するために後づけされた理窟という出自を持つんですよね。
不快や嫌悪は理窟で後づけせずに、不快や嫌悪のままにとどめておくのが望ましいですね。だったらいくら嫌ってもいい。
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