女性が抽象的ゲームが強くない理由
「世界変動展望」というブログから抜粋転載。
里見女流棋士が年齢制限により奨励会退会を余儀なくされたという出来事で、女流棋士はなぜ男性棋士より実力が劣るのか、という問題が再度浮かび上がってくると思うが、一番の原因は男と女の間での将棋普及度の違い、つまり裾野の広さの違いにあるとしても、女性と男性の頭脳の性格の違いというのもありそうな気がする。
女性は論理的でないと言うと女性に叱られるだろうが、男性ほど論理性を好まない、とは言えるのではないか。これは、抽象的なものを好まない、と言い換えてもいい。ただし、文芸などは「感情の世界」をかなり含むので、必ずしも抽象的とだけは言えない。現実世界での感情生活の代用品、あるいはより高次元の在り方としてのフィクション創作においては女性は非常に優秀なのである。
論理よりも感情を優先させる、というのは必ずしも悪いことではないし、それこそが女性らしさの本質だと思うが、それが碁や将棋などへの熱中度への違いを生み出すように私には思われる。つまり、盤上の現象への全的な没入という点で違いが出てくるような気がする。
「りゅうおうのお仕事」というアニメはあまり好きではないが、その中で、あいという少女が「勝ちたい勝ちたい」と考えて泣きながら将棋を指す場面は、わりと女性性を穿っているように思う。その逆に、「三月のライオン」で、二階堂と宗谷が、勝ち負けよりも、自分たちのやっている勝負そのものの内容のすばらしさに恍惚となる、というのが「男性的将棋」であるだろうし、それを描いている点で海羽野チカという漫画家は(男性棋士を理想化しすぎているとはいえ)素晴らしい漫画家だと思う。
もちろん、非論理的な男はゴマンといるし、感情的そのものの男もゴマンといる。上に書いたのは「頭脳ゲームへの没入」という点だけの話で、一般的傾向として、女性は日常生活や愛情生活で頭をフル回転させるから、抽象的ゲームには全的な没入はなかなか難しいという話なのである。男は、将棋を好きな男が将棋をやっている時にはそれ以外のことはほとんど頭に入らないだろう。「三月のライオン」で言えば、女出入りの多そうな後藤のような男でも将棋をやっている時は盤上での戦い以外は頭に無いと思う。
(以下引用)
「知性は男女差がないはずなのになぜ男女で実力差があるのか?」という問い対しては多くの人が様々な意見を述べている。
「将棋人口1500万人のうちの女性人口は0.2%に過ぎず、数が圧倒的に違うのだからプロ棋士選抜の過程で男性の方が質の高い人が集まり実力差が生じる。」「男性の方が論理的思考、空間認知能力に長けた脳を持っているため女性よりも実力が高い。」「将棋は純然たる知性の勝負ではなく対局時間が丸1日近くなるなど長時間で体力を使う。そのため体力的に劣る女性が男性よりも不利になる。」
女流棋士が一般棋士よりも実力が劣る原因については上述のように様々なことが言われているが、どれも決定的な理由ではない。
この原因をきちんと突き止め真実を明らかにすることは将来的には合理的な制度運営のために必要だ。仮に男女に生来的な将棋の実力差があるなら男性と女性を同じ土俵で戦わせることは合理的でない。きちんと男女を区別しプロ棋士の選抜や棋戦を運営すべきである。それは、陸上競技で男女を分けるのと同じだ。ひょっとすると女流棋士が男性棋士に勝てない原因は100m走トップの男子に女子が勝てないのと同じことかもしれない。
男女に生来的な将棋の実力差がないなら、将棋が女性にきちんと普及したら女流棋士制度を廃止した方が合理的である。実力が平等なのに男女の形式的な区別だけで違った制度を設けるのは合理的でないし、実力差がないなら女性はいつか男性と同等の実績を残せるはずだ。
女性が女流棋士ルートと一般棋士正規ルート等を自由に選べる現行の制度は女性への将棋普及といった効果があるだけでなく、女性と男性に生来的な実力差がある場合とない場合の両方に対応できる点もよいと思う。現在では男女の実力差の原因についてはっきりとわかっていないのだから専門家の人がそれを明らかにするまで、専門家以外の人は実力差の原因について深く考えず現行の制度を維持するのがよい。専門家が原因を明らかにしたときに制度を改善すればよいのである。
女流棋士が圧倒的に一般棋士の実力に劣る現状で男女の知力差にその原因はないかという検討をするのは、下手をすると「女性は男性よりも知性が劣っている。」という結論になって周りから猛烈に批判されることになりかねない。多くの人は、特に女性は男女の能力は平等であると信じ、女性が男性に劣っているということを否定したがるが、科学的な真実と思想とは全く関係がない。中世の暗黒時代のように思想で真実を否定するようなことにならないでほしいし、真実から目を背けては合理的な制度は生まれない。
将来的には男女の将棋の実力差についてきちんと真実を明らかにし、適切な制度を運営しなければならない。しかし、真実を発見する作業は一般人が行っても憶測の域を出ないので専門家である学者に任せておけばよいだろう。
現状では女流棋士が男性棋士の実力に圧倒的に劣るのが現実だが、その原因や男女の生来的な実力差についてはいずれ明らかになるだろう。
里見女流棋士が年齢制限により奨励会退会を余儀なくされたという出来事で、女流棋士はなぜ男性棋士より実力が劣るのか、という問題が再度浮かび上がってくると思うが、一番の原因は男と女の間での将棋普及度の違い、つまり裾野の広さの違いにあるとしても、女性と男性の頭脳の性格の違いというのもありそうな気がする。
女性は論理的でないと言うと女性に叱られるだろうが、男性ほど論理性を好まない、とは言えるのではないか。これは、抽象的なものを好まない、と言い換えてもいい。ただし、文芸などは「感情の世界」をかなり含むので、必ずしも抽象的とだけは言えない。現実世界での感情生活の代用品、あるいはより高次元の在り方としてのフィクション創作においては女性は非常に優秀なのである。
論理よりも感情を優先させる、というのは必ずしも悪いことではないし、それこそが女性らしさの本質だと思うが、それが碁や将棋などへの熱中度への違いを生み出すように私には思われる。つまり、盤上の現象への全的な没入という点で違いが出てくるような気がする。
「りゅうおうのお仕事」というアニメはあまり好きではないが、その中で、あいという少女が「勝ちたい勝ちたい」と考えて泣きながら将棋を指す場面は、わりと女性性を穿っているように思う。その逆に、「三月のライオン」で、二階堂と宗谷が、勝ち負けよりも、自分たちのやっている勝負そのものの内容のすばらしさに恍惚となる、というのが「男性的将棋」であるだろうし、それを描いている点で海羽野チカという漫画家は(男性棋士を理想化しすぎているとはいえ)素晴らしい漫画家だと思う。
もちろん、非論理的な男はゴマンといるし、感情的そのものの男もゴマンといる。上に書いたのは「頭脳ゲームへの没入」という点だけの話で、一般的傾向として、女性は日常生活や愛情生活で頭をフル回転させるから、抽象的ゲームには全的な没入はなかなか難しいという話なのである。男は、将棋を好きな男が将棋をやっている時にはそれ以外のことはほとんど頭に入らないだろう。「三月のライオン」で言えば、女出入りの多そうな後藤のような男でも将棋をやっている時は盤上での戦い以外は頭に無いと思う。
(以下引用)
「知性は男女差がないはずなのになぜ男女で実力差があるのか?」という問い対しては多くの人が様々な意見を述べている。
「将棋人口1500万人のうちの女性人口は0.2%に過ぎず、数が圧倒的に違うのだからプロ棋士選抜の過程で男性の方が質の高い人が集まり実力差が生じる。」「男性の方が論理的思考、空間認知能力に長けた脳を持っているため女性よりも実力が高い。」「将棋は純然たる知性の勝負ではなく対局時間が丸1日近くなるなど長時間で体力を使う。そのため体力的に劣る女性が男性よりも不利になる。」
女流棋士が一般棋士よりも実力が劣る原因については上述のように様々なことが言われているが、どれも決定的な理由ではない。
この原因をきちんと突き止め真実を明らかにすることは将来的には合理的な制度運営のために必要だ。仮に男女に生来的な将棋の実力差があるなら男性と女性を同じ土俵で戦わせることは合理的でない。きちんと男女を区別しプロ棋士の選抜や棋戦を運営すべきである。それは、陸上競技で男女を分けるのと同じだ。ひょっとすると女流棋士が男性棋士に勝てない原因は100m走トップの男子に女子が勝てないのと同じことかもしれない。
男女に生来的な将棋の実力差がないなら、将棋が女性にきちんと普及したら女流棋士制度を廃止した方が合理的である。実力が平等なのに男女の形式的な区別だけで違った制度を設けるのは合理的でないし、実力差がないなら女性はいつか男性と同等の実績を残せるはずだ。
女性が女流棋士ルートと一般棋士正規ルート等を自由に選べる現行の制度は女性への将棋普及といった効果があるだけでなく、女性と男性に生来的な実力差がある場合とない場合の両方に対応できる点もよいと思う。現在では男女の実力差の原因についてはっきりとわかっていないのだから専門家の人がそれを明らかにするまで、専門家以外の人は実力差の原因について深く考えず現行の制度を維持するのがよい。専門家が原因を明らかにしたときに制度を改善すればよいのである。
女流棋士が圧倒的に一般棋士の実力に劣る現状で男女の知力差にその原因はないかという検討をするのは、下手をすると「女性は男性よりも知性が劣っている。」という結論になって周りから猛烈に批判されることになりかねない。多くの人は、特に女性は男女の能力は平等であると信じ、女性が男性に劣っているということを否定したがるが、科学的な真実と思想とは全く関係がない。中世の暗黒時代のように思想で真実を否定するようなことにならないでほしいし、真実から目を背けては合理的な制度は生まれない。
将来的には男女の将棋の実力差についてきちんと真実を明らかにし、適切な制度を運営しなければならない。しかし、真実を発見する作業は一般人が行っても憶測の域を出ないので専門家である学者に任せておけばよいだろう。
現状では女流棋士が男性棋士の実力に圧倒的に劣るのが現実だが、その原因や男女の生来的な実力差についてはいずれ明らかになるだろう。
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