人生に支配されるか人生を支配するか
シュタイナー(まさに「主体なあ?」である。)が言っているのは、禅で言う「随所で主となる」とまったく同じだと思うのだが、どうだろうか。
人間の精神修養の目的を一言で言えば、この「随所で主となる」だと私は思っているし、この言葉を教えただけでも禅宗の意義はあったと思う。そして、釈迦の教えの究極も、この「随所に主となる」であり、そのための手段が「空観」だったのではないか。
(以下引用)
ルドルフ・シュタイナーあたりになりますと、これはさらに重要なことになっていて、シュタイナーは、多くの人が「自分のことを自分で支配していない」としていて、人生において、最も重要なことは「自分の人生を自分で支配すること」としています。
たとえば、霊的な生き方への訓練指南的な著作『いかにして高次の世界を認識するか』には、以下のようなくだりがあります。
私たちが自分自身で人生を支配するのではなく、人生によって支配されているときには、外界からやってくる人生の大波は、内なる人間をあらゆる側から束縛します。
これらの、
> 自分の人生を自分で支配していない
とか、
> 人生によって支配されている
とかは、ちょっとわかりにくいかとは思います。
簡単にいうと、たとえば、こういうことです。
何でもいいのですけれど、何かの状況を考えてみます。
- 1. 日本という国の存在を揺るがしかねないような世紀の大ニュースが流れている
- 2. エイリアンが地球に大挙して押し寄せ、地球人とエイリアンの面談がおこなわれると公式に発表される
- 3. 戦争が始まり、近くにミサイルが撃ち込まれた
まあ、状況は何でもいいのですけれど、こういうことがあったとします。
シュタイナーの言う、
> 人生によって支配されている
という態度(自分で自分の人生を支配していない)というのは、
「これらに反応する態度」
です。つまり、大ニュースに心を動かされたり、エイリアンの到来に興奮したり、爆撃に遭って恐ろしがったりということです。
「嬉しい時に喜んだり、恐ろしい時に怖がるのは当たり前だろう」というのが現代の普通の認識ですが、先ほどの、
「感情は外部から作られるのではなく、自分の中で作られている」
ということを真剣にとらえれば、
「嬉しさも楽しさも恐怖も、外部での出来事で動かされているうちは、自分で自分を支配していない」
ということになるという理屈です。
これがシュタイナーをはじめ、いろいろな人たちがいう部分で、その「難しさ」がおわかりになるかんと思います。
外界で起きることに対してだけ、興奮したり恐れたり過度に喜んだりするということは、それは外界への「反応」であって、自主的な心の発露ではないということです。自分の中から冷製に(冷製に調理してどうする)・・・冷静に感情を沸かせることこそが本来の人間のあり方だと。