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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ロマンチックイロニー

北林あずみ氏のエッセイの一部である。
部分的に日本語化したら「ロマン主義的反語」精神とでも言えるだろうか。機械的合理性への反逆だ。反語、つまり言葉で表現された裏に真意があるわけである。ロマン主義自体が「損得計算に基づく近代合理性」への反逆であり、イロニー(アイロニー)はその表現的部分だろう。
この言葉は漱石の「猫」にも出て来る。だが「ロマンチック」の意味を花や夢みたいなものと思うからたいていの人(かつての私含む)は混乱、あるいは誤解しそうである。古い文学観念のように見えるが、実は合理主義で衰弱した人間精神にとって、今こそロマンチックイロニー的なものが社会に必要かもしれない。


(以下引用)

 ドイツロマン派の思想の中心には、ロマンティック・イロニーがある。
 ロマン派とは、西欧近代主義の世界像の土台をなしている機械論と理性(=科学)至上主義への反逆なのだろうが、反逆の仕方が優れて西欧近代主義的なのだ。
 西欧近代主義は個人主義的自我を前提とする。面白いもので、個人主義的自我を前提にしているのに機械論と科学至上主義が土台にあるのだ。ロマン的に自我の絶対的な自由を希求すれば、機械論と科学至上主義とぶつかるだろうことは首肯できる。
 西欧近代主義は資本主義と一心同体だ。社会主義もまた資本主義の亜種でしかない。しかし、西欧近代主義は個人主義的自我なくして成立しない。個人主義的自我の権利と自由と資本主義とは矛盾した関係にある。
 ドイツロマン派は、絶対的自我を希求して、機械論に唾を吐く。絶対的自我を希求する方法がロマンティック・イロニーなのだ。
 要は機械論的な論理の破壊である。論理のしがらみに雁字搦めになれば絶対的自我は望めない。だから脈絡性と整合性の檻を突き破り、Aの地点からまったく無関係なBという地点に、目にはみえない橋を架けてひょいっと乗り移ってしまう。Aの地点にいたときの自分はもう自分ではない。だから責任も発生しない。何ものにも捕らわれることなく、絶対的自我の自由の赴くままにあっちにぶっ飛んだり、こっちにぶっ飛んだりするのだが、そのぶっ飛び方に論理的整合性も脈絡性もなく、責任も蹴飛ばしてしまうのだ。
 ドイツロマン派の悪魔性といわれる所以だが、重要なのは、政治的には機会主義に陥り、現状肯定になるという点だ。
 ドイツロマン派のナチズムへの影響は指摘されているし、ヒトラーも接近した過去を持っているようだ。
 ドイツロマン派を貶してばかりでは申し訳ないので書き添えておくと、芸術的には優れた作品を残した作家や芸術家が多くいる。
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