オカマと宝塚
最初に言っておくが、私はLGBT問題については基礎的な知識も無い人間だ。LGBTが何の略かも分からない。たぶん、「L、G、T」は「レズ、ゲイ、トランスジェンダー」だと思うのだが、Bが何かは分からない。それにGがゲイだとすると、ゲイについての私の理解は間違っているのかもしれない。
と言うのは、私は、「オカマ」とは「ゲイ」であって「ホモ」ではない、と理解しているからだ。もちろん、本来の「ホモセクシュアル」は、「自分と同じ性の相手を愛する人間」だと思うし、それは男女を問わないだろう。「男を愛する男」も「女を愛する女」もホモセクシュアルと呼ぶのではないか、ということだ。それが、日本だと前者はホモ、後者はレズと使い分けられているのだろう。そうすると、「ゲイ」とは何かということになるが、それは「女性性を愛好し、それを公表する男」、つまり女装や化粧や宝飾類を好む男だろう、と私は理解している。そしてホモはむしろ女性性より男性性を強調する者が多いようだ。プロレスラーのような体つき、髭を生やす、スキンヘッドにするなどである。(つまり、最近の若者男性は、見かけで言えば、ほとんどがゲイかホモかであるwww) ついでに言えば、ゲイでもあり同時にホモでもある男もいるだろう。
そこで、本題に入るが、「オカマ」とは女性性を愛好し、それを公表し(あるいは実践し)ている男だ、というのが私の理解だと先ほど書いた。その理解(定義)によって、なぜ女性がオカマを好み、男がオカマを嫌うのか、説明できるのではないか。
要するに、「意識上の上下関係」の問題なのである。男でありながら、女性性を愛好し、それを公表するということは、「男は女性より劣った存在だ」ということを宣言しているに等しいわけである。いわば「男同盟の中の裏切り者」だ。そういう存在を男が嫌い、憎むのは当然だろう。漫画やアニメで長い間、オカマが嘲笑の対象となってきたのは、そういう潜在意識が男のほとんどの中にあったからだと思う。
ところがまた、「男は女より劣っている」という主張は、女性の側には痛快この上ない宣言であり、しかもオカマは見て面白く、接近しても「性暴力」はしそうに見えないから、安全なペット的存在に見えるわけである。これが女性がオカマに寛容な理由だろう。
では、タイトルに書いた「宝塚」はどうか。これは、女性が男役をやるのだから、女性性の男性性への敗北ではないか、と言われるかもしれないが、そうではない。ここでも勝利しているのは女性なのである。なぜなら、ここにあるのは現実に存在する醜く臭く暴力的な男ではなく、「美化され理想化された男性像」だからだ。つまり、こういう男性が描かれること自体、現実の男性の否定のようなものだ。
などとアホな理屈をこねまわしてみたが、「潜在意識の中の上下関係」というのは、現実の社会現象の中に伏在している重要なポイントではないかと思う。
と言うのは、私は、「オカマ」とは「ゲイ」であって「ホモ」ではない、と理解しているからだ。もちろん、本来の「ホモセクシュアル」は、「自分と同じ性の相手を愛する人間」だと思うし、それは男女を問わないだろう。「男を愛する男」も「女を愛する女」もホモセクシュアルと呼ぶのではないか、ということだ。それが、日本だと前者はホモ、後者はレズと使い分けられているのだろう。そうすると、「ゲイ」とは何かということになるが、それは「女性性を愛好し、それを公表する男」、つまり女装や化粧や宝飾類を好む男だろう、と私は理解している。そしてホモはむしろ女性性より男性性を強調する者が多いようだ。プロレスラーのような体つき、髭を生やす、スキンヘッドにするなどである。(つまり、最近の若者男性は、見かけで言えば、ほとんどがゲイかホモかであるwww) ついでに言えば、ゲイでもあり同時にホモでもある男もいるだろう。
そこで、本題に入るが、「オカマ」とは女性性を愛好し、それを公表し(あるいは実践し)ている男だ、というのが私の理解だと先ほど書いた。その理解(定義)によって、なぜ女性がオカマを好み、男がオカマを嫌うのか、説明できるのではないか。
要するに、「意識上の上下関係」の問題なのである。男でありながら、女性性を愛好し、それを公表するということは、「男は女性より劣った存在だ」ということを宣言しているに等しいわけである。いわば「男同盟の中の裏切り者」だ。そういう存在を男が嫌い、憎むのは当然だろう。漫画やアニメで長い間、オカマが嘲笑の対象となってきたのは、そういう潜在意識が男のほとんどの中にあったからだと思う。
ところがまた、「男は女より劣っている」という主張は、女性の側には痛快この上ない宣言であり、しかもオカマは見て面白く、接近しても「性暴力」はしそうに見えないから、安全なペット的存在に見えるわけである。これが女性がオカマに寛容な理由だろう。
では、タイトルに書いた「宝塚」はどうか。これは、女性が男役をやるのだから、女性性の男性性への敗北ではないか、と言われるかもしれないが、そうではない。ここでも勝利しているのは女性なのである。なぜなら、ここにあるのは現実に存在する醜く臭く暴力的な男ではなく、「美化され理想化された男性像」だからだ。つまり、こういう男性が描かれること自体、現実の男性の否定のようなものだ。
などとアホな理屈をこねまわしてみたが、「潜在意識の中の上下関係」というのは、現実の社会現象の中に伏在している重要なポイントではないかと思う。
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