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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「好き」と「愛してる」

トルーマン・カポーティの「真夏の航海」という作品の中に

「グレディは、十四歳の時に、突然、恐ろしく、鋭い感受性を身につけた。彼女は母親が自分を本当に好きでなんかないけれど、愛してくれてはいるのだと気づいた」(安西水丸訳)

という一節がある。
「恐ろしく鋭い感受性」ではなく、「恐ろしく、鋭い感受性」である。つまり「恐ろしく」は「鋭い」にではなく「感受性」にかかる。「恐ろしい感受性」なのだ。あまりに感受性が強いことは「恐ろしい」ものなのだという認識である。まあ、原文がどうなのかは知らないが、いかにもトルーマン・カポーティという作家にふさわしいような気がする。
で、実は、ここでの本題はそこではない。
「好き」と「愛してる」の違いの問題だ。
普通は「好き」よりも「愛してる」のほうが激しく深い感情だと思われている。実際そうなのかもしれない。だが、そうとも限らない。あるいは、激しさとか深さとかいうのとは別の次元で「好き」と「愛してる」は区別されるべきかもしれない。少なくとも、グレディの中では(あるいは作者カポーティの中では)「愛してる」よりも「好き」のほうが上とされている感じがある。まあ、上下の概念でとらえるのもまた違うのかもしれないが。

「私は寿司が好きだ」とは言うが、「私は寿司を愛している」とは言わない。まあ、「好き」のほうが人と物とを問わず広い範囲で使われる傾向があるだけかもしれない。「寿司を愛している」と言ってもべつにかまわないのであるが。

もっと分かりやすい例を探そう。
「アガペー」というのがある。神の愛である。「エロス」が人間の間の肉欲的な愛を表わすのと対比的に使われる。では、親の愛はエロスかアガペーかと言えば、明らかにアガペーに近いだろう。自分の子どもであるというだけの理由で、ほとんど差別なく愛するのが親の愛だ。
そこに「好悪の感情」が入り込むことは当然ある。つまり、自分の子どもでも、気に入らない子と好ましい子が分かれるわけだ。「好き」とはそういうことである。純粋に「好みの問題」なのである。つまり、十四歳のグレディは、自分の母親は親として自分を愛してくれてはいるが、自分は母親の好みのタイプではないな、と鋭い感受性で理解した、というわけだ。(「好き」は表層的感情だが案外と人間を支配する。「愛する」は深い部分で対象とつながるが、表面的にはむしろ静かである。親が子供と喧嘩したり放置したりしながら、いざとなると自分の命を捨てても子供を守る、というのが親の愛である。)

もちろん、エロス的な話になると、表層においても「好き」より「愛してる」のほうが激しく深くなるわけで、「愛する」にもいろいろな色彩がある、というのを結論としておこう。



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