「可愛い」概念を男が理解したのは吾妻ひでお漫画から
あさりよしとおのガルパン絵だが、おそらく吾妻ひでお追悼の絵で、よく見ると吾妻ひでおタッチになっているところに注意。
特に、女の子の足と、大笑い顔の口である。
我々の時代の男世界では「きれい」と「可愛い」の概念はほぼ未分化で、「可愛い」は幼児的なものに限定されていたと思う。
女性のほうは清少納言の昔から「何も何も小さきものはみなうつくし(可愛い)」と、「可愛い」概念が発達していたが、男の世界では強さこそが美徳であったから、可愛いとは柔弱さという悪徳ですらあった。男が可愛いと言われるなどは屈辱だったのである。
女性の魅力についても、「可愛い」よりは「美しい」が上という感じで、そういう時代に、吾妻ひでおの漫画はギャグの面白さだけでなく、絵やキャラクターの可愛さというものが漫画の美点になりうるということを示した、革命的なものだったと思う。あるいは、美しさというのはギャグ(笑い)と両立できないが、可愛いは両立できた、と言うべきか。
なお、今回の記事タイトルは言い過ぎで、手塚治虫漫画でもあるいはそれ以前の漫画でも可愛いという印象は受けていたはずだが、その印象はほぼ無意識的で、それが意識されたのが吾妻ひでおあたりからだ、ということである。江口寿史の漫画も、キャラの可愛さを意識させるきっかけのひとつであり、その頃から社会全体が「可愛さ」という概念を認識し始めたのだと思う。
たとえば、マリリン・モンローはセックスシンボルと言われたが、実は彼女などは「可愛いキャラ」だったからこそ世界的な人気を得たと思う。彼女の身体の曲線は、まさに漫画キャラの曲線であり、性欲を掻き立てるものとは異なるものだ。顔も、美人というよりは可愛い顔だ。演じるキャラも可愛いキャラだ。要するに、当時の世界は「可愛さ」という概念をまだ把握していなかったのである。日本は、世界に先駆けて、「可愛さ」概念を把握したのであり、そのきっかけは吾妻ひでおなどの漫画にある。
なお、少女漫画が「可愛さ」概念を把握するのは、むしろその後だったと思う。瞳の中に星を散らしたり、背景を花だらけにするのは「可愛さ」とは別の、幼児的感性による『美しさとかロマンチックとはこういうもの』というお約束にすぎないと私は思う。
ドゥーチェ!ドゥーチェ!
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