フランスの七月革命
フランス革命は幾つかの段階を経ているが、その中でもあまり知られていない七月革命についてメモしておく。
「世界史の窓」から転載。
「世界史の窓」から転載。
七月革命
1830年、フランスでブルジョワ共和派が復古王政を倒した革命。七月王政の立憲君主政が成立した。
1830年7月、フランス復古王政のシャルル10世の言論弾圧などに対して、ブルジョワ共和派を支持するパリ市民が蜂起して、絶対主義体制を倒し、七月王政を出現させた変革。ヨーロッパの各地の反動勢力にも大きな打撃となり、ウィーン体制を大きく動揺させた。
この民衆蜂起の結果、シャルル10世は退位し、復古王政は終わりを告げ、ブルボン家の分家のオルレアン家のルイ=フィリップが国王となり七月王政となった。
この戦いには『幻想交響曲』作曲中の27歳のベルリオーズも参加し、33歳の画家ドラクロワは大作『民衆を率いる自由の女神』 を描いた。
復古王政倒れる
1830年7月27日早朝、発行された『ナショナル』『グローブ』などの新聞が直ちに警察によって没収されると、印刷所では抵抗が始まり、パリ市街に暴動が起こった。一旦鎮圧されたが、軍が引き揚げた後、バリケードが築かれ、学生と労働者、カルボナリの残党がパリ12区の蜂起のための委員会を作った。翌日、パリ市庁、ノートルダムで激しい衝突が起こった。銀行家ラフィトはポリニャック首相に勅令撤回・内閣交替の要求を国王に伝えるように要請したが、面会を拒否された。その夜、ラフィト邸が抵抗運動本部となった。夜通しの戦闘で市庁舎は奪回され、翌朝、ラ=ファイエットを国民軍司令官とし、ラフィトらをパリ市委員会に任命、市庁舎に乗り込んだ。政府軍の一部が共和派に寝返り、戦局は一転、ルーヴルでもスイス人守備隊の抵抗を排除して市民が突入し、時計台に三色旗を掲げ、玉座にひとりの戦死者を座らせた。ヴェルサイユから9キロのサン-クルーにいたシャルル10世もようやく内閣会議を開き、勅令撤回と内閣の交替を決定した。これが『栄光の3日間』といわれる戦いだった。この民衆蜂起の結果、シャルル10世は退位し、復古王政は終わりを告げ、ブルボン家の分家のオルレアン家のルイ=フィリップが国王となり七月王政となった。
この戦いには『幻想交響曲』作曲中の27歳のベルリオーズも参加し、33歳の画家ドラクロワは大作
ドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』
(引用)「栄光の三日間」、画家はパリ市民とともにあった。ドラクロワが民衆のなかに見たものは、「民衆をみちびく自由の女神」のすがたであった。女神は厚い胸もあらわに、右手に三色旗をふりかざし、左手に銃剣をひっさげ、バリケードの上に歩をはこぶ。この女神はなよやかな深窓の女ではなく、勤労にきたえられた、たくましい女性の肉体をもっている。「ノートル・ダムの塔上に燃える黄と青の空のもとに」政府軍のしかばねこえて、女神と市民は前進する。女神の左側に青いシャツを着た傷ついた労働者が、女神を見上げている。そのかたわらに、シルクハットを耳までずらせ、ラッパ銃を手にした市民がいる。これがドラクロワの自画像だといわれている。その背後にはベレーの労働者、その下に三角帽の理工科大学の学生も見える。自由の女神の右手には、どこかで見つけてきたピストルを両手に、なにかさけぶ小僧がいる。これはパリ特有の浮浪少年で、当時ガマンとよばれた。・・・どこで寝ているかわらないし、なにで生活しているか、だれも知らない。さわぎさえあれば、お祭り気分で集まり、群衆のあいだをすりぬけて、いたずらをしてまわる。・・・<井上幸治『ブルジョワの世紀』世界の歴史12 中央公論社 p.208>注意 七月革命の絵であること ドラクロワの俗に「自由の女神」といわれる絵画はあまりにも有名であるが、よく勘違いされている。これが1789年7月のフランス革命を描いているとか、1848年の二月革命を描いている、という勘違いだ。それは誤解で、ドラクロワのこの名画は1830年のフランス七月革命を描いています。もっともフランスは革命の連続によって王政を倒し、共和政を実現したので、この絵はイメージ的にすべてのフランスの革命に共通している、と言えないこともないが、世界史を学ぶ上では、1789年、1830年、1848年の革命の違いは明確におさえておく必要があります。
(引用)もっともこの誤解には無理からぬ点もある。三色旗はむろんのこと、自由の女神も共和政のシンボルであるマリアンヌのイメージに重ね合わされている。にもかかわらず、栄光の三日間がもたらしたのは共和政ではなく、ルイ=フィリップを戴く立憲君主政だったからである。<谷川稔『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』1999 中央公論社 p.68>七月革命では共和政とはならず、七月王政という立憲君主政ができあがった。民衆の願いは裏切られて政治から切り離され、経済的にも産業資本家(ブルジョワ)の覇権が成立して民衆の困窮は続いた。そのような七月革命の影を描いたのがドーミエの風刺画「七月の英雄」である。ドラクロアとドーミエの絵を題材に、七月革命の表と裏を考察しよう。
七月革命の影響
1830年にフランスで起こった七月革命は、ウィーン体制下の反動的権力に抑えられていたヨーロッパ各地の自由主義運動、ナショナリズム運動に大きな影響を与えた。それらの動きには次のようなものがある。PR