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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

フランスの七月革命

フランス革命は幾つかの段階を経ているが、その中でもあまり知られていない七月革命についてメモしておく。

「世界史の窓」から転載。

七月革命

1830年、フランスでブルジョワ共和派が復古王政を倒した革命。七月王政の立憲君主政が成立した。

 1830年7月、フランス復古王政シャルル10世の言論弾圧などに対して、ブルジョワ共和派を支持するパリ市民が蜂起して、絶対主義体制を倒し、七月王政を出現させた変革。ヨーロッパの各地の反動勢力にも大きな打撃となり、ウィーン体制を大きく動揺させた。

復古王政倒れる

 1830年7月27日早朝、発行された『ナショナル』『グローブ』などの新聞が直ちに警察によって没収されると、印刷所では抵抗が始まり、パリ市街に暴動が起こった。一旦鎮圧されたが、軍が引き揚げた後、バリケードが築かれ、学生と労働者、カルボナリの残党がパリ12区の蜂起のための委員会を作った。翌日、パリ市庁、ノートルダムで激しい衝突が起こった。銀行家ラフィトはポリニャック首相に勅令撤回・内閣交替の要求を国王に伝えるように要請したが、面会を拒否された。その夜、ラフィト邸が抵抗運動本部となった。夜通しの戦闘で市庁舎は奪回され、翌朝、ラ=ファイエットを国民軍司令官とし、ラフィトらをパリ市委員会に任命、市庁舎に乗り込んだ。政府軍の一部が共和派に寝返り、戦局は一転、ルーヴルでもスイス人守備隊の抵抗を排除して市民が突入し、時計台に三色旗を掲げ、玉座にひとりの戦死者を座らせた。ヴェルサイユから9キロのサン-クルーにいたシャルル10世もようやく内閣会議を開き、勅令撤回と内閣の交替を決定した。これが『栄光の3日間』といわれる戦いだった。
 この民衆蜂起の結果、シャルル10世は退位し、復古王政は終わりを告げ、ブルボン家の分家のオルレアン家のルイ=フィリップが国王となり七月王政となった。
 この戦いには『幻想交響曲』作曲中の27歳のベルリオーズも参加し、33歳の画家ドラクロワは大作『民衆を率いる自由の女神』を描いた。

ドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』

民衆を率いる自由の女神
ドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』1830
(引用)「栄光の三日間」、画家はパリ市民とともにあった。ドラクロワが民衆のなかに見たものは、「民衆をみちびく自由の女神」のすがたであった。女神は厚い胸もあらわに、右手に三色旗をふりかざし、左手に銃剣をひっさげ、バリケードの上に歩をはこぶ。この女神はなよやかな深窓の女ではなく、勤労にきたえられた、たくましい女性の肉体をもっている。「ノートル・ダムの塔上に燃える黄と青の空のもとに」政府軍のしかばねこえて、女神と市民は前進する。女神の左側に青いシャツを着た傷ついた労働者が、女神を見上げている。そのかたわらに、シルクハットを耳までずらせ、ラッパ銃を手にした市民がいる。これがドラクロワの自画像だといわれている。その背後にはベレーの労働者、その下に三角帽の理工科大学の学生も見える。自由の女神の右手には、どこかで見つけてきたピストルを両手に、なにかさけぶ小僧がいる。これはパリ特有の浮浪少年で、当時ガマンとよばれた。・・・どこで寝ているかわらないし、なにで生活しているか、だれも知らない。さわぎさえあれば、お祭り気分で集まり、群衆のあいだをすりぬけて、いたずらをしてまわる。・・・<井上幸治『ブルジョワの世紀』世界の歴史12 中央公論社 p.208>
注意  七月革命の絵であること  ドラクロワの俗に「自由の女神」といわれる絵画はあまりにも有名であるが、よく勘違いされている。これが1789年7月のフランス革命を描いているとか、1848年の二月革命を描いている、という勘違いだ。それは誤解で、ドラクロワのこの名画は1830年のフランス七月革命を描いています。もっともフランスは革命の連続によって王政を倒し、共和政を実現したので、この絵はイメージ的にすべてのフランスの革命に共通している、と言えないこともないが、世界史を学ぶ上では、1789年、1830年、1848年の革命の違いは明確におさえておく必要があります。
(引用)もっともこの誤解には無理からぬ点もある。三色旗はむろんのこと、自由の女神も共和政のシンボルであるマリアンヌのイメージに重ね合わされている。にもかかわらず、栄光の三日間がもたらしたのは共和政ではなく、ルイ=フィリップを戴く立憲君主政だったからである。<谷川稔『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』1999 中央公論社 p.68>
 七月革命では共和政とはならず、七月王政という立憲君主政ができあがった。民衆の願いは裏切られて政治から切り離され、経済的にも産業資本家(ブルジョワ)の覇権が成立して民衆の困窮は続いた。そのような七月革命の影を描いたのがドーミエの風刺画「七月の英雄」である。ドラクロアとドーミエの絵を題材に、七月革命の表と裏を考察しよう。

七月革命の影響

 1830年にフランスで起こった七月革命は、ウィーン体制下の反動的権力に抑えられていたヨーロッパ各地の自由主義運動、ナショナリズム運動に大きな影響を与えた。それらの動きには次のようなものがある。
  • まず、隣接するオランダからのベルギー独立運動がおこり、12月に独立を達成した。
  • ロシアの支配を受けていたポーランドの独立運動もおこったが、こちらはロシア軍の介入で弾圧された。
  • 自由主義者によるドイツの反乱が各地で起こったが鎮圧された。
  • 翌年の31年には中部でのイタリアの反乱が起こったがオーストリア軍によって鎮圧された。
  • イギリスのでは自由主義的改革が進められており、1832年に第1回の選挙法改正が行われた。しかし、依然として財産制限が設けられていたので、七月革命の民衆の勝利の影響を受けてたイギリスの労働者による選挙権の拡大を要求するチャーティスト運動が盛んになった。
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