創作のための哲学的考察テーマ
別ブログに載せる予定だった記事だが、「データベース上のエラーで登録できませんでした」という事故があったので、ここに載せておく。
(以下自己引用)
このブログテーマで思いつく内容を少しまとめておく。
1:快感原則と心情移入
2:自己愛と超人幻想
3:問題と解決
4:敵と味方
5:愛情や執着の対象
といったところだろうか。前に書いた「戦い」なども小説(脚本・漫画原作)創作のための哲学的考察テーマとしては必須だろう。
上に書いた中では1から3が主要で、4と5は副次的な感じがある。たとえば、戦いの話に愛情の対象という存在は必須ではない。しかし、ハリウッド映画ならほぼ必須になる。そして、執着の対象というのは表面的には必須ではなくても水面下の存在としては在るのが望ましい。初期のヒッチコックの映画では、「謎の存在」(多くの人の執着の対象)の争奪戦がだいたいの話の大筋である。「めまい」では謎の美女への主人公の執着が話を生む。
また4の敵と味方というのは、漱石の「坊ちゃん」では明白だが「三四郎」ではさほど役割化されない。つまり、「仲間」や「友人」というのは、敵が存在する場合に「味方」となるのであって、最初からそういう役割として存在するわけではない。
言い換えれば、小説的フィクションは大きく
A:戦いの話
B:愛情の話
に分類されると言えるかもしれない。当然、男はAを好み、女はBを好む。
そしてどちらの場合も「問題と解決」が話の大筋(あるいは各エピソード)になる。
たとえば「赤毛のアン」では、主人公の「赤毛」が主な問題であり、それに伴う劣等感と癇癪と夢と希望が話を作っていく。つまり、「容姿」というものが女性に持つ意味は男の場合の「戦闘能力」に等しいと言えるかもしれない。(男なら、戦闘能力の養成課程そのものが「話の面白さ」のひとつである。つまり武芸訓練の話などだ。)(「赤毛のアン」だと、容姿の問題は自然に解決する。つまり、主人公の肉体的成長で容姿の醜さが目立たなくなり、人格的成長で容姿をあまり気にしなくなる。だが、最初から実は主人公はさほど醜くはなく、その自意識過剰のために過度に反応するのだが、そういう設定は、後の少女漫画の「自分を平凡と思っている女の子(あるいはメガネの女の子)が実は美人」という「トリック」に共通するかもしれない。自分の知らない長所を他人が高く評価している、という「幻想」も快いのである。)
だが、「問題と解決」というのは大きな考察テーマなので、稿を改めて考察したい。
また、たとえば「無法松の一生」のように「運命に恵まれない優れた人間の崇高な悲劇」というのは、話全体が象徴性を持ち、市井の人間の話でもギリシア悲劇的な象徴性と偉大な感じを与えるわけだが、或る種の「神々しさ」というのは単に自己犠牲だけから生まれるのかどうか、というのも考察したい。おそらく「運命(持って生まれた環境や条件など)という、勝利不可能な強大な敵」との戦い、あるいはそれに翻弄される人間(善なる存在)の奮闘努力が観る者に痛ましさと同情を生むのだろう。この観る側(受容者側)の「同情」や「共感」というのも考察テーマにするべきかと思う。
つまり、「勝てる相手」との戦いは「面白い」し、「勝てない相手」との戦いは悲劇として崇高感やシンパシーを生むと言えるだろうか。
もちろん、「無法松の一生」の表面的テーマは恋愛であるが、それは「最初から実現化不可能な恋愛」であることから、観る者に主人公への同情と応援したい気持ちを生み、また、その恋愛が実現することはマドンナ的存在が聖性を失うことへの失望を生むという、「極限状況の恋愛」なのである。だから、それは「勝てない相手(運命)との戦い」でもあるわけだ。この作品の異常な感動の原因はそこにあると思う。つまり、原理そのものは「オイディプス王」なのである。それが、愛嬌と超人性(超人性ではジャン・ヴァルジャンと共通している。)を共に備えた主人公によって親しみやすい話になっているから、構造の持つ「運命悲劇」という面が隠れているわけだろう。要するに、「解決不能な問題」もまた感動の対象になる(それどころか、描き方次第では最大の感動の対象になる)、ということだ。
(以下自己引用)
このブログテーマで思いつく内容を少しまとめておく。
1:快感原則と心情移入
2:自己愛と超人幻想
3:問題と解決
4:敵と味方
5:愛情や執着の対象
といったところだろうか。前に書いた「戦い」なども小説(脚本・漫画原作)創作のための哲学的考察テーマとしては必須だろう。
上に書いた中では1から3が主要で、4と5は副次的な感じがある。たとえば、戦いの話に愛情の対象という存在は必須ではない。しかし、ハリウッド映画ならほぼ必須になる。そして、執着の対象というのは表面的には必須ではなくても水面下の存在としては在るのが望ましい。初期のヒッチコックの映画では、「謎の存在」(多くの人の執着の対象)の争奪戦がだいたいの話の大筋である。「めまい」では謎の美女への主人公の執着が話を生む。
また4の敵と味方というのは、漱石の「坊ちゃん」では明白だが「三四郎」ではさほど役割化されない。つまり、「仲間」や「友人」というのは、敵が存在する場合に「味方」となるのであって、最初からそういう役割として存在するわけではない。
言い換えれば、小説的フィクションは大きく
A:戦いの話
B:愛情の話
に分類されると言えるかもしれない。当然、男はAを好み、女はBを好む。
そしてどちらの場合も「問題と解決」が話の大筋(あるいは各エピソード)になる。
たとえば「赤毛のアン」では、主人公の「赤毛」が主な問題であり、それに伴う劣等感と癇癪と夢と希望が話を作っていく。つまり、「容姿」というものが女性に持つ意味は男の場合の「戦闘能力」に等しいと言えるかもしれない。(男なら、戦闘能力の養成課程そのものが「話の面白さ」のひとつである。つまり武芸訓練の話などだ。)(「赤毛のアン」だと、容姿の問題は自然に解決する。つまり、主人公の肉体的成長で容姿の醜さが目立たなくなり、人格的成長で容姿をあまり気にしなくなる。だが、最初から実は主人公はさほど醜くはなく、その自意識過剰のために過度に反応するのだが、そういう設定は、後の少女漫画の「自分を平凡と思っている女の子(あるいはメガネの女の子)が実は美人」という「トリック」に共通するかもしれない。自分の知らない長所を他人が高く評価している、という「幻想」も快いのである。)
だが、「問題と解決」というのは大きな考察テーマなので、稿を改めて考察したい。
また、たとえば「無法松の一生」のように「運命に恵まれない優れた人間の崇高な悲劇」というのは、話全体が象徴性を持ち、市井の人間の話でもギリシア悲劇的な象徴性と偉大な感じを与えるわけだが、或る種の「神々しさ」というのは単に自己犠牲だけから生まれるのかどうか、というのも考察したい。おそらく「運命(持って生まれた環境や条件など)という、勝利不可能な強大な敵」との戦い、あるいはそれに翻弄される人間(善なる存在)の奮闘努力が観る者に痛ましさと同情を生むのだろう。この観る側(受容者側)の「同情」や「共感」というのも考察テーマにするべきかと思う。
つまり、「勝てる相手」との戦いは「面白い」し、「勝てない相手」との戦いは悲劇として崇高感やシンパシーを生むと言えるだろうか。
もちろん、「無法松の一生」の表面的テーマは恋愛であるが、それは「最初から実現化不可能な恋愛」であることから、観る者に主人公への同情と応援したい気持ちを生み、また、その恋愛が実現することはマドンナ的存在が聖性を失うことへの失望を生むという、「極限状況の恋愛」なのである。だから、それは「勝てない相手(運命)との戦い」でもあるわけだ。この作品の異常な感動の原因はそこにあると思う。つまり、原理そのものは「オイディプス王」なのである。それが、愛嬌と超人性(超人性ではジャン・ヴァルジャンと共通している。)を共に備えた主人公によって親しみやすい話になっているから、構造の持つ「運命悲劇」という面が隠れているわけだろう。要するに、「解決不能な問題」もまた感動の対象になる(それどころか、描き方次第では最大の感動の対象になる)、ということだ。
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