「認知障害」は末期老人にとってひとつの救いである
「認知症」という気持ちの悪い言葉を作った医者(記事内で認知症の第一人者と書かれている)が自分が認知症になってどう感じたかという記事だが、大半はセンチメンタルな内容で読むだけ無駄である。だが、この部分は実は最近軽い認知症になったと自覚している筒井康隆も同じことを言っている。実際、客観的に考えてもそうだろう。
なお、私が「認知症」という言葉が嫌いなのは、「認知」は「症状」ではないからである。単純に「認知障害」で良かったのである。あるいは「認知不全症候群」でもいい。
なお、「末期老人」という言葉は私が今作ったが、既にある言葉かもしれないし、無いなら作るべきだろう。言葉が無いと論じられないからだ。「終末期老人」でもいい。さすがに「臨死老人」とは言えないが、事実はそうだろう。(私自身それが目前である)
「認知症」は英語では「Dimentia」と言うようだ。日本語に直訳したらどうなるか、後で調べたい。dimensionと関係があるのだろうか。
(以下引用)
なお、私が「認知症」という言葉が嫌いなのは、「認知」は「症状」ではないからである。単純に「認知障害」で良かったのである。あるいは「認知不全症候群」でもいい。
なお、「末期老人」という言葉は私が今作ったが、既にある言葉かもしれないし、無いなら作るべきだろう。言葉が無いと論じられないからだ。「終末期老人」でもいい。さすがに「臨死老人」とは言えないが、事実はそうだろう。(私自身それが目前である)
「認知症」は英語では「Dimentia」と言うようだ。日本語に直訳したらどうなるか、後で調べたい。dimensionと関係があるのだろうか。
(以下引用)
認知症とは何か。それは、ひとつの救いだと長谷川さんは言う。
「余分なものは、はぎとられちゃっているわけだよね、認知症になると。(認知症は)よくできているよ。心配はあるけど、心配する気づきがないからさ。神様が用意してくれたひとつの救いだと。」(長谷川さん)
取材の最後、長谷川さんに尋ねたいことがあった。「認知症になって見える景色はどんな景色か」―。
「変わらない、普通だ。前と同じ景色だよ。夕日が沈んでいくとき、富士山が見えるとき、普通だ。会う人も普通だ。変わらない。」(長谷川さん)
PR