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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

橋本佐内という悲劇の人物

山本周五郎の「城中の霜」を再読して、その中の橋本佐内の人物像が一般に知られているものとどれくらい違うか調べてみたが、山本周五郎の完全なフィクションではないようだ。死に際に泣いた、というのも有名な話らしく、「城中の霜」は、その泣いた意味を解き明かすことが主題と言っていい。
日ロ同盟論などは、(当時の帝国主義が土台にあるにしても)非常に現実的な論で、ロシア(ロシア連邦とでもいうべき国家群)が日本の隣国である、という事実は案外現代の日本人が意識していないことだと思う。

(以下引用)

生涯[編集]

1834年4月19日(天保5年3月11日)、橋本長綱の子として越前国常磐町に生まれる[2]。母は小林静境の娘。弟にのち陸軍軍医総監・子爵となった橋本綱常がいる。家系は足利氏の連枝・桃井氏の後胤。祖先が桃井より母姓を冒して橋本姓に改姓して以来、橋本を称する。

嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事する[3](適塾時代に、福沢諭吉が左内を尾行したという話があるが、左内と福沢諭吉は同時期に適塾に在籍しておらず、フィクションである)。嘉永5年(1852年)19歳の春に父・長綱が病気のため大坂での勉強を打ち切って帰藩し、代診に従事して患者の治療に励んだ[4]。11月に父が病死すると、藩医(表医師外科)の列に加えられた[5]安政元年(1854年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく坪井の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ[6]。その後、水戸藩藤田東湖薩摩藩西郷吉之助小浜藩梅田雲浜熊本藩横井小楠らと交流する。窮迫した時勢に接するうちに、医学を離れたい心をおこした左内は、中根雪江、鈴木主税の尽力によって安政2年(1855年)に藩医職を解かれ、御書院番に転じた[7]。やがて福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、安政4年(1857年)正月藩校明道館御用掛り・学監同様となる[8]。在任中は、明道館内に洋書習学所(洋学所)と惣武芸稽古所等を設けた[9]。同8月、江戸詰めを命じられ、侍読兼御内用係を務め、藩主の側近として藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになった[10]

14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した[1]。またロシアとの同盟を提唱し[1]、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。

安政5年(1858年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられた[11]。取り調べの際「私心でやったのではなく藩主の命令である」と主張したことが、井伊の癪に障ったらしく(当時は藩主をかばうのが当然という朱子学たる武士の倫理があった)、遠島で済む刑罰が重くなり安政6年10月7日1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった[12]享年26(25歳没) の若さであった。本人も死罪は予想しておらず、最後はその無念さから泣きじゃくりながら死んでいったと伝わる。

墓は福井市の善慶寺に隣接する左内公園と、長州の吉田松陰などとともに南千住回向院にもある。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。1891年明治24年)、贈正四位

性格[編集]

かなり高潔で清廉潔白な性格のようで、西郷隆盛もその無私な性格に心を打たれたり、牢獄でも牢名主に代われるものならかわってやりたいと思われるほどの人格者だった。一方で野心家な面があり、この世に名を残したいという思いと行動力と頭脳見識があり、その結果が結局命取りになってしまった。

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