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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

井口博士の雑論

「大摩邇」所載の井口博士のブログだが、長文なので一部割愛。
健康に関する話や地域による人間性の違いなど、面白い。

(以下引用)

そして3月頃に「ウィ-ナーの量子力学」をまとめたところから始まった。さらにどんどんこれまで学んだり研究したことをまとめようと思っていた。その矢先に青林堂から『ニコラ・テスラの本』の依頼が来た。これは2月初めだった。だから、先にこの本の構想を練りながら、ウィーナーのものをまとめたのだった。これも出版するというようなものではなく、あくまで私自身のためのメモのようなものである。
それから、締切の5月30日を目指して、3月上旬に「」を書き始めた。ところが、書き始めてすぐに第一章の最初のあたりで突然目に異変が来た。そして翌日には右下肢の異変。これはおかしいということで、脳外科医のいる大病院で救急で診てもらった。MRI他すべての検査をしたところ、何らかの原因による一過性の脳梗塞状態ということになった。
この異変からの回復のために、重曹水を止め、ジョグを止めて散歩にし、静養し、1ヶ月を棒に振った。結果的にこの1ヶ月近くのせいで、最後の章に到達できなかった。それが「新型コロナの真実」という章だった。しかし、とにかく、その間でも少しずつ第一章、第二章、。。。と締め切りの5月末を目指して書き進んでいった。そして、ついに予定通りに締め切りに間に合わせて、完璧に近いpdっファイルを青林堂へ送った。
これは900ページ近いもの、数冊分になったため、私はすべて含んだ1000ページの1冊にして1万円くらいの本でいいと思ったのだ。しかし、私の取り分は普通の1冊分で結構と提案した。ところが、青林堂が当初の想定していたのと違うと思ったのか、紙の本の出版ではなく、一部を除き様子見に出版し、それ以外は電子出版にするというふうに話を変えてきた。それで、私はそれでは当初の予定と違うということで、この話はボツにした。そして、自分でスタンネットの私のHPにpdfで貼り付けた。
ところが、これが読者の閲覧およびダウンロードの集中によりスタンネット社のネットを繋がりにくくするほどになった。それえで、スタンネットから撤去勧告が来た。それで、グーグルドライブに移動して、そこから閲覧ダウンロードできるように試しに試みた。いまのところうまく行っていると思う。
というわけで、私は2月から5月いっぱいまでの自分の研究を停止して執筆活動に全精力を費やし、脳梗塞の危機になるほどに集中した労働に対する謝礼どころか時給どころか何ももらうこともなく、ただただタダ働きをしたに終わったのだった。この意味で、この件は私にとっての疫病神以外の何物でもなかった。これで、私のこの1年の大半の趨勢が決まってしまったと言っても過言ではなかった。
それで、私はジョグの代わりに始めた散歩のついでにバリトンの声楽のマネごとを初めて、そのストレス緩和を計ったというわけだ。
伴奏なし、音楽なし、楽譜なし、ただ自分の耳で聞いた歌を頭の中で思い出しながら、歌うというだけのシンプルな声楽。しかしながら、結構この1年これで楽しめた。喉を鍛えることにも役立った。
ところで、この本をまとめるにあたり、私自身のこれまでの人生を振り返る事ができ、そこで驚くべきことを知ることが出来た。それがその「あとがき』に書いたことだった。
つまり、私がもし物理に転向せず「サッカー」を続けるか、あるいはずっと関東で留まる生活していたら、私の人生がどうなったか?
そういう、これまでずっと自分ではそういう可能性を考えたこともなかった別の人生の可能性に関して、今回ほどその結果が「見えた」ことはなかったのである。つまり、私には「サッカー」で成功した場合(あるいは「関東」に居続けた場合)の「ご褒美」(配偶者)と、「物理」を続けて成功した場合の「ご褒美」(いまの奥さん)が用意されていたのかもしれないという自覚であった。それがそれぞれ別の人生として存在したかも知れないということがはっきり認識できたことだった。
そのもう一つの可能性と今の現実の比較においては、あまりに失ったものが大きかったのかも知れないと認識するという痛恨の人生を知ることになったというわけだ。しかしながら、今年ほどこれを知ることが出来たのは、1度の人生の中で2度の人生を体験したかのような実に奇妙な経験をしたに等しい。それが、私とぴったりの相性の女性が2人いて、それがなんとキャンディーズのミキさんと私の妻の2人だったということであった。
そんなわけで、今回の一連のできごとは、2011年3月11日の震災のことを2013年に本にし、今年の春にそれに合わせてキャンディーズのスーさんこと田中好子さんのことを今年追悼した私に対して、なんとなくそのスーさんが私に何かを知らせたくて起こした騒動というような気がするわけである。あくまで私自身の妄想の類に過ぎないが。なぜなら、去年の今頃まで私はそれといってキャンディーズの「キ」の字も関心がなかったからである。
これが一番最初にキャンディーズをメモしたもの。

そして、体調がほぼもとへ戻ったころから、また少しずつジョグを始め、徐々にその距離を伸ばし、秋ごろにはほぼ昨年までと同じ状態に戻すことが出来た。
さて、9月になって、順調かと思われたが、今度はドライブ中にまた目に異変が来て、今度は左目が完全に見えなくなるという事態になった。それでそこからドラーバーを奥さんに変えて病院直行。そこでMRIでまた検査。今度は、偏頭痛の目に異変が出るタイプということになった。それで、私自身が個人的にその原因を考えてみた結果、「カフェイン」。つまり、コーヒーの飲みすぎ。私は毎日コーヒー30杯水代わりお茶代わりに飲み続けていた。それで、今回からこれを禁止。飲んでも1日1杯まで。
結局、今年は、重曹水(高血圧の原因だった=ナトリウム過多)、コーヒー(偏頭痛の原因だった=カフェイン過多)、そして甘いもの(かゆみの原因だった=グラニュー糖過多)、すだちやゆずの絞り汁(心筋梗塞の原因だった=カリウム過多)、。。。を止めることで、なんとか年末までたどり着いた。
こうしてこれらを眺めれば、基本的には私が還暦過ぎ頃からの加齢、それに伴う更年期障害の一種の現れと見えるということである。ここへ来て、そういうことがさまざまの生活習慣病のような形で出始めたということだと認識したのである。
まあ、男性の場合、その寿命は地位によって決定されている。地位の高い人ほど長生きできるのである。これは猿族つまり霊長類共通の遺伝様式である。
実際、欧米の研究では、主夫やニートの寿命は平均寿命は50歳。つまり、人生50年である。日本人は白人より10年ほど寿命が長い。だから、日本人の主夫やニートの寿命は還暦程度だろう。というわけで、私はその寿命を少し超えたばかりのところで、こういった異変が起きたというふうに理解できる。言い換えれば、私も「そろそろ」ということである。
霊長類の人の場合は、とにかく高い地位につかないと長寿命は期待できない。
 
大学教授、医者、僧侶、社長、政治家、教祖、これが長命の代表格である。これが長寿の6種族である。
事実、イギリスの研究では、健康に完璧に注意した最下層の公務員と、喫煙飲酒まったく健康に気を使わない最上部の管理職公務員とを比較した場合、なんと最下層の健康オタクの方の寿命が短かったのである。
スピ系のリーダー(講演者)は、一種の僧侶のようなものだから、おそらく長生きだろう。保江邦夫先生はいわば新興宗教や合気道の教祖のようなものである。だから、確実に100歳近くまで生きられるだろう。浅川嘉富先生は高齢ながら非常に元気である。
だから、若者はこれを知り、できるだけ自分が上の立場に付くことである。つまり、ある年齢で独立すること。それまでは準備期間と考えたほうが良いだろう。
まあ、単純化して言えば、上につけば下にストレス発散できるが、下につけば上からのストレスに日々さらされる。ストレスは血中コルチゾールを増やし、ガンや病気の原因になる。そういうことである。
事実、看護師の寿命はかなり短い。定年まで元気で務める女性はほとんどいない。逆に、医者の寿命は長い。定年退職しても死ぬまでどこかの病院で勤務できる。
だから、かつてドイツの医者ヘルムホルツは、物理学者になる前にまず医者になった。それから、医者をやりながら物理の研究を行った。私は、子供の頃、小学校の卒業アルバムの自分のページに、「将来の夢は科学者か医者になること」と書いていた。しかし、当時は日本の現実をまったく知らなかったし、我が家の家計それを知るものはなかった。私がいま知る限り、これよりは、むしろ「将来の夢は医者になって科学者になること」とすべきだっただろう。実際、東大にいる灘高歴代最高の頭脳の天才と言われる御仁がいるが、その彼は東大で医者になり、それから研究者になっている。
ちなみに、もし私がサッカーで行き、その後、どこかの大学卒業後に高校か中学の教員になろうとしていた場合、私は家が宝石製造業だっかたから、ダイヤモンドの鑑定士の資格を目指しただろう。事実、私の父はその頃そのチャンスを配慮してくれた。しかし、当時の私はこれからサッカーをやめて理論物理学者になるつもりだからといってそれを拒絶したのだった。
鑑定士の資格があれば、どこぞの主婦の持つ指輪のダイヤを鑑定すれば、一回1万円というふうに鑑定料をもらうことができる。法律で決まっているわけだ。弁護士が相談料30分5000円。塾講師が1時間3000円。大学講師が1コマ9000円。大学教授が1時間講演で2万円。しかしながら、理論物理学者が科学の相談を受けても0円。この意味で、資格の有無は大事である。
若い人はこういった現実を少し知った方が良いのかも知れませんナ。しかしながら、若気の至り。いくらそういうアドバイスがあったとしても、若いうちは自分の夢や目標を達成するという意気込みの方がまさるに違いない。かつての私がそうだったように。まずは、苦労してでも自分の夢を実現する努力をすることが大事だろう。
「若ければやり直すことができる」。よくこう言う人がいるが、実際には何事においても「チャンスは一度」である。仮に何度生き返れるとしてもその時々で現れるチャンスは一度切りである。一度のチャンスに掛ける。この執念が大事になるかも知れない。
ところで、最近興味深いことを知ったのだが、かつて100年ほど前に我が国の東大にいた気象学者に藤原咲平博士という人がいた。この人は当時、東大の寺田寅彦と双璧といわれた奇才であった。この人の指導を受けたのが、渡辺慧博士と伏見康治博士だった。
渡辺慧博士は量子統計理論の基礎づけと素粒子のCPT定理を完成させたノーベル物理学賞レベルの博士だった。壮年にはカリフォルニア大学の物理、晩年にはハワイ大の物理の強化に努めた偉人である。一方、伏見康治博士はいうまでもなく、我が国の物理学の大家である。多くの著名な研究を残し、弟子を残された。
私はこの2人の昔の解説や論文を読む内に、この2人の師匠の藤原咲平博士を知ることになった。今年のノーベル物理学賞が、東大出のアメリカへ渡った気象学者の真鍋淑郎博士に送られたが、この人の遠い先輩こそ、この藤原咲平先生だった。
さて、この藤原咲平先生の名著「雲をつかむ話」という本がある。初版は1926年。昭和元年。この本には、ちょっと前に60代で早世された和達美樹博士の父和達清博士のことも書かれていた。
この本は今読んでも新規性に富み、実に面白い。気象ばかりか、地震雷火事おやじのすべてが科学的に当時のレベルで考察されている。その中で、気象と人間の気性の関係を論じた一説「気候と平均性格」もあった。この中にこんなものがある。東北の人間の性格と西部の人間の性格の違いを論じたものである。言い換えれば、寒い地方の人の性格と暑い地方の人の性格の違いを論じたものである。
       東北               西南
 
1 覚えることも忘れることも遅い   覚えることも忘れることも速い
2 意的である            情的である
3 粘着質              多血質
4 習慣、保守、退嬰、消極、静止的  適応、進取、向上、積極、活動的
5 真面目、著実、粗野、緩慢     不真面目、軽薄、華奢、機敏
6 内恭敬の念あるも外體儀に欠く   外體儀あるも内恭敬の念に欠く
これは櫻井賢三という当時の人が「中等教育」第33号に「西南と比較したる東北の学生とその教育」という記事を書いたものにあったものらしい。
どうだろうか?今もかなり当たっているのではなかろうか?
仮に東北の代表として二刀流大谷翔平選手、西南の代表としてビッグボス新庄剛志を比較してみよう。
私はこの東北と西南の気質の違いが見事に出ていると思う。
監督就任後新庄はアクティブにメディアに出まくっている、それに対して、大谷はあくまで自分の日々のルーティーンを保守し、一切マスゴミを拒絶している。
この意味では、日本代表は東と西の2チームがいるだろう。
ではみなさん、良い年を!来年もよろしく。
弥栄!
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