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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

労働者の未来像

単なるメモである。考察は今は特にしない。

(以下「紙屋研究所」から引用)

他人に雇われる働き方はなくなるのか?

 

 今回、不破哲三社会主義論にちょっと戻ります。
 不破が『マルクスと友達になろう』で述べている次の箇所についてです。

 「生産手段の社会化」によって、社会がどう変わるか。具体的に見てみましょう。
 まず、人間の労働のあり方が根本から変わります。他人に雇われて他人の利潤のために働くという「雇用」関係そのものがなくなって、労働が、自分自身と共同社会のための生産活動という、本来の性格をとりもどすのです。(不破前掲書p.47、強調は引用者、以下同じ)


 これをどういうふうに読むか、ってことです。
 ふつうに読むと、雇用関係の否定ですよね…。
 だって「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、ってあるもの。特に「他人に雇われて」の部分。
 だから、不破の考えている社会主義経営体って、労働者=経営者、あるいは協同組合のようなものかと思いますよね。
 協同組合とは何か、についていろいろ議論がありますが、ざっくりと言えば、「利潤追求ではなく、生産・生活の向上などの目的をもったメンバー(組合員)による、平等で民主的な運営にもとづく経営体」とでもいいましょうか。


 株式会社との違いをかいた下記のJAの解説がわかりやすいでしょう。
https://org.ja-group.jp/about/cooperative


 マルクスも協同組合を、社会主義社会でのひとつのスタイルとしてあげたことがあります。


 ただ、当の不破自身は別のところでこう言っています。

 〔生産手段の――引用者注、以下同じ〕社会化の方式には、いろいろな形態がありうるでしょう。マルクスエンゲルスにしても、その具体的な形態として「国有化」をあげたこともあれば、当時、イギリスなどでかなりの発展をとげていた労働者の集団による協同組合工場を頭に描いて、協同組合による社会化の形態を実例としてあげたこともあります。高度に発展した生産力をふまえて、生産手段の社会化を実現するというのは、人間社会にとって新しく開拓される経験ですから、当然、そこには、いろいろな形態が生まれ、その有効性、合理性が実際の経験によって試されて、またそれにもとづく淘汰や進化の過程をへることでしょう。
 〔日本共産〕党綱領は、そのことを考慮して、これが社会化の日本的な形態となるだろうという調子で、あれこれの特定の形態をあげることはしていません。(不破『新・日本共産党綱領を読む』p.367-368)


 不破が「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくなって」と言っているのは、どうも協同組合(もしくは公有企業)のようにしか思えないけど、「特定の形態をあげることはしていません」というのとは矛盾するんじゃないか、という思いも一瞬持ちます。
 もしここで不破のいう「他人に雇われて」が文字通りのことしか意味しないんだったら、ぼくはこういう社会主義像は狭すぎると思いますね。


 これでは株式会社のような形態や利潤追求型の企業体は、すべて否定されてしまうんじゃないでしょうか。あくまで不破が書いた「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、ということをその通りに受け取れば、ですが。



 結論めいたことを先に書いておけば、今の株式会社で働いている人たちが経営に民主的に参加できるルートができることが「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る一つの道だし、また、その従業員である人たちが、同じ企業や別の企業の株主、消費者、取引先、地域住民など、その会社に外側からかかわっている人(いわゆるステークホルダー)となって、会社の経営に口を出して参加していく多様なルートもふくめて、そういうものが全体としてあわさって「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」ることではないかと思うのです。

社会主義の形態は別に協同組合と決まっちゃいねーよ

 この点で、松竹伸幸の指摘は示唆に富んでいます。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/Lenin-saigono-mosaku.html

 …マルクスレーニンが協同組合を強調したからといって、現在の日本に生きる人びとが社会主義とは協同組合を前進させることなのだと考える必要はまったくない。マルクスレーニンが、目の前に存在するものから将来社会の形態を洞察したように、日本の現実をふまえて考えればよいのである。 


 たとえば、第二次世界大戦以降の資本主義においては、協同組合企業というものは目を見張るような発展をみせずに、逆に、株式会社がどんどん力をもつようになっていった。同時に、そういう力を得た株式会社を国民がどう規制していくのかが問われるようになった。
 株主となって発言権を得るというのも、その一つである。問題のある商品を生産している企業には投資しないというやり方も生みだされた。それらをつうじて、企業の社会的責任という概念が誕生し、消費者、従業員、地域、環境に対する責任を企業がどう果たしていくのかが問われるようになった。


 現在、ポスト資本主義の道を探っていくうえでも、資本主義の枠内の改革をめざしていくうえでも、大切なことは目の前の現実である。その現実のなかに、新しい社会の要素があるのかないのかを見極めることが、変革を成し遂げるうえで不可欠なのである。株式会社というのものを、そういう目で分析し、考察する必要がある。(松竹『レーニン最後の模索』p.128)

 松竹は、レーニンに学ぶというのは、レーニンが目の前の現実の苦闘の中からネップを編み出したその着眼に学ぶということであり、レーニンの片言隻句を紹介したり、逆に「今さらレーニンかよw」と嘲弄することでもないとしています。

株式会社でもいいんじゃねーの?

 別の角度から言いましょう。
 「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、というのは、契約をして雇用されるという働き方の否定、あるいは利潤追求企業や株式会社を否定することなのでしょうか。
 そうではないと思います。
 契約を結んで雇用される、その会社は株式会社である――そうであったとしても、「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係」を克服して、「労働が、自分自身と共同社会のための生産活動という、本来の性格をとりもどす」ことはできるのではないでしょうか。


企業とは何か―企業統治と企業の社会的責任を考える 会計学者である角瀬保雄は、マルクスが協同組合と株式会社に、経営体の公共性、共産主義社会の萌芽を見たとして、そのいずれについても「マルクスが一九世紀の協同組合工場にみたアソシエイションの今日的展開」(角瀬『企業とは何か』p.208)としました。
 角瀬は、ヨーロッパ資本主義の中で、例えばドイツにおける労使の「共同決定」などを紹介します。

ドイツの株式会社では監査役は取締役の上に立ち、取締役を選任するという独自の構造をもっていて、監査役の地位はたいへん高いものがあります。そして従業員二〇〇〇人以上の企業では監査役の半数が株主代表と並んで従業員代表から選ばれなければならないと法律で決まっています。(角瀬前掲p.136)

 この他に、社会的パートナーシップとか欧米における労働者の所有参加について書いています。
 「所有参加」などは、日本の上場企業での従業員持株制度が紹介されています。数%株を持てば大株主という状況の中で、従業員は1%持っているんですけど、「多くは会社では総務部長が株式を預かっていて、その議決権は社長の力を強めるだけの役割しか果たしていません」(角瀬p.140)という状況が書かれています。


 現実にどれくらい機能しているか別にして、株式会社の中で労働者が経営に参加するしくみはいろいろ生まれています。でも、さっき言った「持株制度」のように、そういう制度があってもそれを使って経営に参加しようとはしない、その経験を積もうとしていないのが現状です。


 角瀬はすでに「大企業は事実上、『誰のものでもない』もの、社会的な存在になっていると考えられます」(角瀬p.141)とまで言っているのですが、

ここで重要なのは経営への参加が実現しても、労働者が経営の主体として管理能力を身につけ自らを高めない限り、その参加は形式に終わり、実体をもったものにはなりえないということです。実際に管理する能力がなければ、現実には専門経営者のいうままとなります。したがって、経営参加は到達点ではなく、これから進むべき始まりでしかないのです。(角瀬p.141-142)

 ぼくは、生産手段が社会化され、経済において社会が主人公になる、社会が経済をコントロールするようになるには、一番大事なのは、市場経済と私企業を前提としつつ、やはり国家や自治体がどんな法律・計画・金融・財政を使ってその市場を手なずけていくのか、というその大枠のところだと思います。
 そういう大きなレールがきちんと敷かれていないと、個々の企業体がいくら民主化しても、身動きできる余地などほとんどないからです。
 だから、生産と労働の現場である経営体が民主化されるのは大事なことですが、それは社会主義にとっては副次的なことではないかと思います。


 

経営体の民主化よりもAIとBIによる労働時間短縮の方が効く

 そもそも、もし労働者が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障され、そうですね、例えば住居費・教育費・医療費・介護費・保育費などが完全に社会の負担になったとして、本当に日々の生活分だけを労働で稼げばいいような社会になった場合、それこそ労働時間が抜本的に短縮されるので、「生産と労働の現場である経営体」での働き方には、みんなあまりこだわらなくなるんじゃないでしょうか。
 それこそ、職場ではなくて、社会参加のようなものが進み、そちらの分野での社会的コントロールのツールが発達していくような気がします。
 え? 具体的にどういうことかって?
 まあ、あくまで例えですけど、例えば今、福岡市消費生活審議会っていう市レベルの審議会があるんですよね。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/shimin/shohiseikatsu/life/syouhiseikatusentauhoumupeiji/singikai.html
 福岡市消費者教育推進計画っていうのをつくって、そこで消費者の教育をどう進めるかを議論していて、市のPTAの副会長さんなんかも入っているんですが、率直に言っておざなりなんです。少し意見を言って終わり。
 そういう審議会が部会ごとに分かれて多数の市民が参加し詳細な議論をして、本当に身になる計画もつくって、実効ある消費者教育運動にして企業の行動も変えていく……そんなふうになるには、多くの人が参加できるような時間的余裕がないとダメです。


 労働と所得が次第に切り離されるようになっていくと、社会参加が進むと思います。もちろんみんなそんなことをやりたいわけではないと思いますが、要するにヒマな人が増えるので、当然母数も増えていくわけです。


 こういう条件を整えるのは、企業体の民主化運動よりも、むしろAI(人工知能)による生産性の飛躍的上昇とその社会的利用、BI(ベーシックインカム)に見られるような公的な生存権の保障じゃないかと思います。この社会主義にとってのAIとBIの問題は、また別の機会に論じます。

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現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如

「悪」について考察する。
悪を倫理で取り扱う困難さは、「悪は個人的には利益を生むことが多い」という事実に基づいている。つまり、「悪が成功すれば、その実行者には利益を与え、社会全体には不利益を与える」のである。この不都合な事実を明言した倫理学者や哲学者や宗教家はほとんどいないと思うが、この事実を知らない人間もまたほとんどいない。だから、石川五右衛門ではないが、「世に盗人(悪人)の種は尽くまじ」であるわけだ。企業家や政治家など、世間で大成功をおさめ、警察に逮捕もされない大悪党はゴマンといる。つまり、警察や検察は「正義の味方」ではなく「権力の手下、権力の護り手」であるからである。このことを言明する宗教家や倫理学者もいない。しかし、自分の身に置き換えて考えれば、自分が警察や検察の人間なら権力者に立ち向かうことがまず不可能であることは容易に分かるはずだ。
簡単な話だが、善は善に反する行為はできないのに対し、悪は、必要な場合は善(偽善)もやすやすと行えるのである。現実世界では善は悪に勝てないのが道理だろう。
そこで、倫理が扱えるのは「個人的道徳」のレベルの問題だけという、情けない話になる。しかし、それは果たして小さなことなのか。つまり、倫理というのは自分の人生の導き手としてダメな案内人なのかどうか、もう少し考えたい。
私が世間の悪人たちを見ていて思うのは、その精神の卑しさである。そういう卑しい精神で一生を送る、その人生とは、巨万のカネがあろうと惨めな人生、生きるに値しない人生だ、と私は思う。
「卑しい精神」と言うとあまりに漠然としているが、「他者への尊重、愛情、優しさ、同情、献身」が欠如した精神と言えるだろうか。別の言い方をすれば「自己愛」だけが精神を満たしている人間、エゴイスト、特に残酷なエゴイストである。これは、まさに「悪」の特徴なのだ。
例を挙げるなら、『悪霊』のスタヴローギンである。彼は「何事も為しうる」能力と財産と身分を持ち、超絶的な美男子である。にも関わらず、人間に位階をつけるなら、彼はあの作品の中の人物で最下位になるだろう。それは、彼が他者をまったく尊重せず、他者を平気で踏みにじることのできる人間だからである。単に興味本位で、安月給の下級官吏のひと月の給料を盗んで恥じない人間なのである。それで一家が困窮することも分かり切っているわけだ。他人の不幸を平気で見ていられる人間を、私は人間の屑だと思う。企業経営者などにもその手の人間は多いのではないか。で、そういう人間の人生は楽しいのか、生きる価値があるのか、ということだ。
ここで、善というのを何か凄いことのように思うかもしれないが、要は「他者の尊重、敬愛」があるかどうかというだけのことだ。その反対になるのが高慢な自負心だろう。自己愛だけで満たされた人間は他者を尊重するはずがない。逆に、どんなわずかなものであれ、人間は自己犠牲を行う時、一番美しい。おおげさな言い方をすれば、自己犠牲をする時、人間は神に近づく、という印象すらある。『悪霊』の中で、シャートフが殺される前夜のシャートフとキリーロフの描写は、神々しさを感じさせる。これは、下級官吏の給料を盗む時のスタヴローギンの下劣さと対照的である。
つまり、善とは他者の尊重である、というのが私のテーゼだが、それは「美しい」行為でもあるわけだ。当人がその美しさを知らない時ほど、その美しさは輝かしい。悪を行う時人間は醜く、善を行う時、美しい。それだけでも倫理の価値は十分なのではないだろうか。
だが、これはまだ考察不十分な思想であるので、もう少し考えたい。


現代倫理学(2)人間の倫理(善悪の定義と派生的考察1)

神の存在は不可知だから、我々に可能なのは「人間の倫理」を考察することである。それによってこの世界をより良いものに変えていけるなら、そういう考察は無意義ではないだろう。

さて、倫理の基本は「善とは何か、悪とは何か」である。古い言葉で言えば「勧善懲悪」が倫理の目的だが、問題は、その「善」と「悪」が明解な定義がされていないことだ。
この定義は単純なものである必要がある。それでないと社会全体の人間の指針とはなりえないからだ。つまり、「分からないままに従う」という、従来的な倫理(神の倫理はそれである。)ではなく、社会全体が納得して従う倫理を構築する必要があると私は思っている。そういう倫理が無いから、あらゆる宗教が破綻した後にこの無道徳な世界が生まれてきたのだろう。
たとえば、「嘘をついてはいけない」という倫理は、今では子供ですら信じていない。総理大臣を初めとして嘘が平気で罷り通る社会で、誰がそんな倫理を信じるものか。
また、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある若者の質問に居合わせた大人たちが誰ひとり答えられなかった事件は記憶に新しい。それも、世界中で戦争やテロや大量殺人事件が頻発する世界では、誰も納得できる答えを持ち合わせていなかったからだろう。

私が提起する「善悪の定義」は、下のようなものだ。その定義から派生する考察課題とその答えなどを番号付けしていく。定義自体は非常に単純なものだ。

定義1:善とは生の肯定、そしてこの世界の肯定である。
定義2:悪とは生の否定、そしてこの世界の否定である。

「生の肯定」が「この世界の肯定」になるとは限らない、という意見も出るだろうが、私はこれはほぼ同義になると思っている。1-aがその説明である。
以下が、定義1から発生する考察である。

1-a:生の肯定とは、世界の肯定である。つまり、この世界を「生きるに値する世界」と観じることである。
1-b:自己の生を肯定し、尊重することは、他者の生をも肯定し、尊重する「義務」を伴うべきである。
1ーc:bにおける「義務」がすなわち「倫理」である。(反論者のためにbとcを分けておく。)
1ーd:倫理は社会的存在としての人間が社会を維持する土台である。
1-e:従って、「なぜ人を殺してはいけないか」に対する答えは、「殺人は社会全体の破壊、あるいは崩壊につながるから」である。(言うまでもないが、「人を殺してもいい」という社会は全員の殺し合いになり、崩壊する。)
1-f:「なぜ社会を破壊してはいけないのか」に対する答えは、「社会は人が生きる基盤であり、そう質問するあなた自身が生きる基盤だからだ」である。
1-g:上記e、fは、貧困と抑圧、社会への不満によって「自分が死んでもいい」という自暴自棄に陥った人間(いわゆる「無敵の人」)に対しての抑止力にはならない。よって、社会は「無敵の人」を生み出さない制度、すなわち福祉制度の充実が必要になる。
1-h:ではあるが、「世界を肯定する者」は、自分が死ぬからといって世界そのものを破壊はしない。それは、彼がこの世界を愛しているからだ。(ここに文化の意義がある。文化とは本来的には世界への愛を生み出すものなのである。世界への嫌悪や破壊を促す創作物は倫理的には批判されていい。もっとも、それへの罰則を導入すると、ファシズム的社会になるので注意が必要だ。法律と異なり、倫理は本来、罰は伴わないのである。)

定義1に対する考察は以上である。


新コロの感染経路追跡に意味はあるか

ま、要するに感染経路の追跡調査など意味が無いということである。
と言うか、新コロに関しては最初から不可解な話ばかりで、政治的に強引にすべてが推し進められている。いわゆる、グレートリセットのための世界的詐欺だ、というのが一番合理的な解釈だ。


科学者数百人「新型コロナは空気感染も」 WHOに対策求める

2020年7月6日(月)12時15分

世界保健機関(WHO)に対し、科学者数百人が、新型コロナウイルスの空気感染の可能性を示す科学的根拠があると指摘し、対応策の推奨を改定するよう求めていることが分かった。米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)が報じた。写真はコンピュータで作成したウイルスのイメージ。NEXU Science CommunicationとTrinity Collegeがアイルランドのダブリンで作成(2020年 ロイター/NEXU Science Communication)

世界保健機関(WHO)に対し、科学者数百人が、新型コロナウイルスの空気感染の可能性を示す科学的根拠があると指摘し、対応策の推奨を改定するよう求めていることが分かった。米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)が4日に報じた。

WHOは、主に感染者の咳やくしゃみや会話で鼻や口から出る飛沫から感染するとしている。

32カ国の科学者239人が参加したWHOへの公開書簡は、飛沫より小さな粒による感染を指摘。書簡は翌週に科学誌で発表する計画だ。

科学者らによると、大きな飛沫であろうと小さな粒であろうと、新型コロナウイルスは空中を通じて吸い込まれ、感染させる可能性がある。

一方でニューヨーク・タイムズ紙によると、WHOは浮遊するウイルスが感染させるとの科学的根拠には説得性がないとの立場だ。

ロイターの取材に対しWHOのコメントは得られていない。



西洋医学悪用の究極が新コロ詐欺

「阿修羅」コメントのひとつだが、よくまとまっていて、掘り出し物の文章である。
新情報は無くても、これだけ明晰にまとめられたら、敵は反論できないだろう。

(以下引用)

22. 2021年5月24日 12:47:45 : e3Tff3Jjwg YzkvbEp2eWFFWEk=[4]  報告
厚労省の皆さん ・・・  本気でコロナってパンデミックと思ってますか?


いい加減に世界同時多発医薬品ワクチン強要詐欺やめませんか?

私は 今厚生省は日本の国にとっては不要な省だと思います。
私は日本の医療医薬品~米医学を信じなくなりました。
いまや存在そのものが害悪になってしまっています。
信じなくなった理由はいくつかあります。

第一・・・
日本敗戦後トルーマン大統領は医薬品産業たちに「日本人を病気で蔓延させよう。そして我々の薬を売り続けるのだ。いい考えだろう?」と言っていた事。GHQ部隊にその実行部隊が入ってきて日本の医療をドイツからアメリカの医療に変えさせました。

第二・・・
今や世界の薬の販売量は世界の半分近い額を日本だけで占めています。彼の言ったことが実現しているのです。薬漬け民族にされていますよ。

第三・・・どうやって日本人の健康を損なうのか?それはアメリカによって日本から古来の海塩を廃止、取り上げてしまったことです。ただの工業塩~ナトリウムを食塩と称して専売公社を作らせてそれまでの海塩を禁止させたことです。

海塩には生物の細胞を再生させるカリウムや骨を再生させるカルシウム、神経に大事なマグネシウムなどが含まれていましたがこれで人間の免疫強化がはかれていたのです。最近ではなおも減塩減塩!といって旗振りしてきましたが塩をなくすと生物には百害があって体力仕事などできませんし、熱中症などもすぐに起こります。

生き物は海塩をしっかりとるべきなのです。生きさせようとしてくれるのが海の成分の海の塩です。西欧人は岩塩ですがあれもミネラルは含まれていますが彼らから取り上げようとはせず、日本人にはミネラルをとらせないよう旗振りしてきたのが厚生省です。癌が増えたのはこれが原因でしょう。病院では治りもしない薬を売り続けてきています。喫煙者がいなくなったにもかかわらず癌が増えるのはこのせいです。

第四・・・
抗がん剤は発がん物質ですが厚労省はこれを知っているのにやめようとしません。抗がん剤はアメリカでは1990年に禁止になっているそうです。
なぜだめかというとこの薬はもともとアメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争で使った生物兵器や空中からの散布の兵器薬剤がもとになっていて、在庫品の処分に困ったことでこれを薬として売ればいいとでてきたのがもとです。それを日本に持ち込まれて毎年40万人が殺されてきましたが、厚生省は見て見ぬふりをし続けています。癌は低体温と免疫低下が原因ですのでビタミン治療としっかり海塩を摂取して癌にならないようにすることが大事です。抗がん剤を禁止すべきです。

第五・・・
高血圧は病気だとして基準を薬の売りやすい基準にまで故意に下げ続けてきています。
年齢+90がもともとの基準でしたのに今や一律に130越で高血圧だとか言っていますが、これだと40歳過ぎの人が皆高血圧になってしまい、薬の処方が始まります。一週間で 治らぬ薬など薬とはいいません。自分の免疫、治癒力でしか病気は治りません。年齢があがって血圧が上がってく
るのは当たり前で病気ではありません。薬で血圧さげれば低体温で癌になるし、認知症にもなるのでむしろ薬で病気になるのです。いまこれを医原病ということになっています。

第六・・・
糖尿も桑の木の葉をお茶にすれば治りますのに薬漬けさせています。薬で一層病気を起こすのは高血圧と同じことです。

第七・・・
そして極めつけは今回のコロナ詐欺とワクチン煽り詐欺です。一昨年まで病気の蔓延情報は患者数という用語でした。今回からは感染者という新語をもちいて医薬品、医師会、マスコミ、そして厚生省までもがグルで今回の騒ぎを続けています。厚生省は見て見ぬふりどころかコロナの統計を改ざんしつづけています。

なにが感染者数ですか?・・その新語?患者にまだなっていないのが感染者ですよ。アメリカ市民は 階段からおちてもコロナ死、海でおぼれて死んでもコロナ死、インフルで死んでもコロナ死といっているそうです。日本もいま同じ体制で国民を追い込んでいます。

治験は10年が常識ですのにたったに三か月でなぜ出して売ろうとするのか?アメリカの厚生省は長期治験未承認であって実験ならといっているのに政治家製薬会社が暴走して売り始めてしまったわけでしかも遺伝子組み換えワクチンなど説明もなしでなぜ売ろうとするのか?

なにをするつもりなのか?今これがコロナだというのが中国は取消してしまいほんとにコロナあるのかい?どれがコロナなんだという状況なのに説明もしない。存在していないのになぜワクチンが効くというのか?

エイズやサーズやあらゆるコロナなどの感染症には外山製薬のアビガン、それにイベルメクチンがあるのになぜこれを売ろうとしないのか?ワクチンが売れなくなるからでしょ。なんで行政がそんな悪魔みたいな連中のほうを片持ちするのか?

いまや医者・医療・医薬品すべてもう信じてはいけない。
自分の免疫、体のもつ自然治癒力を上げることが大事でましてや 免疫を下げてしまうワクチンなど日本人にうたせてはいけません。立ち上がってくださいよ。

僕は先の大戦後、生物兵器の研究とワクチンの研究がされるようになり、それをアメリカの麻薬商人の末裔の現在の製薬会社が行っていることから。。

すべて、すべてマッチポンプで引き起こされていることではなかろうかと疑問をもっています。ウイルスが2000年頃から毎年のようにニュースで報道されるなんて出来過ぎだと思う。金儲けでこのようなことがおきている。

2類を引き下げて、PCR検査はなんでも反応するので廃止し、アビガン・イベルメクチンを認可すべし。

ワクチンは免疫停止遺伝子操作なのに廃止でよい。