私は、両親が不仲で、母親が(当時は気付かなかったけど)うつ病で、精神不安定だった・・・さびしい、悲しい生い立ちでした。
だから、なんとかして幸せになりたいと思いました。
世の中の人みんなが幸せであってほしいと、願いました。
どうしたら、幸せになれるだろうと、様々な工夫と努力をしました。
その結果、心は外向きでなければ
利他の心でなければ、明るくなれないと気付きます。
つまり「自己中心」であっては、ダメなんです。
ところが、この自己中心という言葉が表す意味に二つあって
「我利我利亡者」=自分さえよければいい。なんでもかんでも欲を出して我田引水・・・というのが「自己中心」だと思われがちですが、
これが、微妙でね。
「自己中心」というのは、決して「自分になんでもかんでもとってくる」ことではないんですよ。
そうではなく「常に一人称でモノを考える人」が、自己中心なんです。
なにかがうまくいかないとき
「私は、ああいう努力も、こういう心遣いもしたのに、なんでうまくいかないの?」と「私は・・・」という人は自己中心なんです。
そうではなく「これが、ダメなら、次は、どの手で行こうか」と、思いを外に向ける・・・これが、大事なんです。
そもそも、幸せな人を観察していたら、必ずしも「善良」ではないのに、なぜ?というのが、多くあるでしょう?
反対に、一生懸命他人に、尽くしているのに、なんで、あんなふうに気の毒なの?という善人がけっこういるでしょう?
神さまは不公平だ!!というケースはよくあるんです。
こんな状況をほっておくなんて「神も仏もあるものか!」と、思うことありませんか?
あれねえ・・・観点が違うんですよ。
神仏の助けは、暗い顔をして、恨みがましく「なんで、こんなことに・・・」とうつむく人には、来ないんです。
他人様からずううずうしいやつ!と、思われても、明るく、豪快に、素直に「ほしい」と手を出して、「よっしゃー、やったー」という人に、幸運はやってくるんです。
幸運の神様が見ているのは、人の明るさですね。
明るくて水平線より、高いところに常に視線を置いて、希望を持っている人
(この人が、いい人か、ずるい人か、冷たい人か、・・・そういう角度は、要らないんです)
反対に、ふと気づくと、視線が、ぽとりと足下に落ちて、ため息をつき、「じっと手を見る」人には、幸運の女神は微笑まない。
「暗さがきらいなんですね」
ただ、それだけですよ。私の見るところ。
「大丈夫、心配しなくていい、必ずいいようになるから。
最後は、一番よくなる」
そう言い切り、思い切る人でないといけないんです。
暗い運命を引き寄せてしまいます。
そのことに気付くまで、私は、善良で真面目な、献身的な暗い人でした。
だから、いつも人生にケチがつく。
なんで、私だけ、なんで、こんなことに・・と、いつも、心の中で、自分の傷をなめている。
いい人なんですよ。
他人様をだまそうとか、傷つけようなんてしない。
何か、うまくいかないと、他人を責めないで、自分を責める・・・なにしろ善良なんです。
でも、これって駄目なんですよ。
「自分」も、責めてはいけないんです。
自分だからいいだろう・・・と、自分を責めたらいけないんです。
此の世で一番大切な自分じゃないですか。
その一番大切な人を責めたり貶めたらいけないんです。
この人生を引き受けます!と言って、此処に出てきているのに。
その人生をくらーく見てはいけないんです。
自分を劣ったもの、無力なもの、弱いモノ、悲しい存在、なにもできない、いくら努力してもどうしようもない・・・そういう風に貶めてはいけません。
これが、人生における最大の罪です。
他人の金品を盗むよりなお悪い。
少なくとも、自分を幸せにすると言う点では、最悪です。
ということが、わかってからは、私は、物事がうまく進まないときにこそ、勇気を出します。
「野球は2ダウンから」
「きたか!こういうことは毎度のことだ、必ず抜け道がある」
「大事なことには、必ず妨害が入る・・・その妨害を乗り越えたとき、人は、本物になる。
よっしゃ!ほんものに、なるチャンス到来!」
これが、幸せな人の考え方です。
自分のことなんか、考えていません。
あれを、こうして、ああして・・・と、ものごとの手順とか理念ばっかり追いかけている。
そういう心の働きが、人を幸福へと導きます。
まあ・・ところが、なかなか目線を水平線より高いところに持ち上げるのは、難しいんですよね。癖ですからね。ふと、目線を落とすのは、癖ですから。
なかなか治りません。
けど、自分がうつむいていると気付いたら、視線を上にあげる努力をすべきです。
繰り返し、繰り返し、それが習慣になるまで。
それぐらいの努力ができなくて「幸せになりたい」なんて、言葉を言うんじゃないよ。
自分の人生を助け起こせるのは自分だけ。
人には、他人の人生を引き起こす力なんてないんだから。
幸福になるための力は、各人、自分の中に持っています。信じることです。
だから、なんとかして幸せになりたいと思いました。
世の中の人みんなが幸せであってほしいと、願いました。
どうしたら、幸せになれるだろうと、様々な工夫と努力をしました。
その結果、心は外向きでなければ
利他の心でなければ、明るくなれないと気付きます。
つまり「自己中心」であっては、ダメなんです。
ところが、この自己中心という言葉が表す意味に二つあって
「我利我利亡者」=自分さえよければいい。なんでもかんでも欲を出して我田引水・・・というのが「自己中心」だと思われがちですが、
これが、微妙でね。
「自己中心」というのは、決して「自分になんでもかんでもとってくる」ことではないんですよ。
そうではなく「常に一人称でモノを考える人」が、自己中心なんです。
なにかがうまくいかないとき
「私は、ああいう努力も、こういう心遣いもしたのに、なんでうまくいかないの?」と「私は・・・」という人は自己中心なんです。
そうではなく「これが、ダメなら、次は、どの手で行こうか」と、思いを外に向ける・・・これが、大事なんです。
そもそも、幸せな人を観察していたら、必ずしも「善良」ではないのに、なぜ?というのが、多くあるでしょう?
反対に、一生懸命他人に、尽くしているのに、なんで、あんなふうに気の毒なの?という善人がけっこういるでしょう?
神さまは不公平だ!!というケースはよくあるんです。
こんな状況をほっておくなんて「神も仏もあるものか!」と、思うことありませんか?
あれねえ・・・観点が違うんですよ。
神仏の助けは、暗い顔をして、恨みがましく「なんで、こんなことに・・・」とうつむく人には、来ないんです。
他人様からずううずうしいやつ!と、思われても、明るく、豪快に、素直に「ほしい」と手を出して、「よっしゃー、やったー」という人に、幸運はやってくるんです。
幸運の神様が見ているのは、人の明るさですね。
明るくて水平線より、高いところに常に視線を置いて、希望を持っている人
(この人が、いい人か、ずるい人か、冷たい人か、・・・そういう角度は、要らないんです)
反対に、ふと気づくと、視線が、ぽとりと足下に落ちて、ため息をつき、「じっと手を見る」人には、幸運の女神は微笑まない。
「暗さがきらいなんですね」
ただ、それだけですよ。私の見るところ。
「大丈夫、心配しなくていい、必ずいいようになるから。
最後は、一番よくなる」
そう言い切り、思い切る人でないといけないんです。
暗い運命を引き寄せてしまいます。
そのことに気付くまで、私は、善良で真面目な、献身的な暗い人でした。
だから、いつも人生にケチがつく。
なんで、私だけ、なんで、こんなことに・・と、いつも、心の中で、自分の傷をなめている。
いい人なんですよ。
他人様をだまそうとか、傷つけようなんてしない。
何か、うまくいかないと、他人を責めないで、自分を責める・・・なにしろ善良なんです。
でも、これって駄目なんですよ。
「自分」も、責めてはいけないんです。
自分だからいいだろう・・・と、自分を責めたらいけないんです。
此の世で一番大切な自分じゃないですか。
その一番大切な人を責めたり貶めたらいけないんです。
この人生を引き受けます!と言って、此処に出てきているのに。
その人生をくらーく見てはいけないんです。
自分を劣ったもの、無力なもの、弱いモノ、悲しい存在、なにもできない、いくら努力してもどうしようもない・・・そういう風に貶めてはいけません。
これが、人生における最大の罪です。
他人の金品を盗むよりなお悪い。
少なくとも、自分を幸せにすると言う点では、最悪です。
ということが、わかってからは、私は、物事がうまく進まないときにこそ、勇気を出します。
「野球は2ダウンから」
「きたか!こういうことは毎度のことだ、必ず抜け道がある」
「大事なことには、必ず妨害が入る・・・その妨害を乗り越えたとき、人は、本物になる。
よっしゃ!ほんものに、なるチャンス到来!」
これが、幸せな人の考え方です。
自分のことなんか、考えていません。
あれを、こうして、ああして・・・と、ものごとの手順とか理念ばっかり追いかけている。
そういう心の働きが、人を幸福へと導きます。
まあ・・ところが、なかなか目線を水平線より高いところに持ち上げるのは、難しいんですよね。癖ですからね。ふと、目線を落とすのは、癖ですから。
なかなか治りません。
けど、自分がうつむいていると気付いたら、視線を上にあげる努力をすべきです。
繰り返し、繰り返し、それが習慣になるまで。
それぐらいの努力ができなくて「幸せになりたい」なんて、言葉を言うんじゃないよ。
自分の人生を助け起こせるのは自分だけ。
人には、他人の人生を引き起こす力なんてないんだから。
幸福になるための力は、各人、自分の中に持っています。信じることです。