「文芸」から「マーケティング」への変化
要するに、「自己発現」のための営為までが完全にマーケティングに埋没したのが現代社会だということである。その荒波の中に、イワシ(鰯)のような脆弱さを持つ人間が飛び込むことは自殺行為かもしれない。
(以下引用)
これはかえすがえすも残念なことなのだが、文章を掲載する媒体が、紙からネット上のサイトに移行するにつれて、文章を扱う人間の感覚は、編集者の良心から、マーケッターの嗅覚に近似しつつある。
この流れはもはやとどめようがない。
おそらく、10年もしたら、事実をフィクションとして掲載することはもちろん、フィクションを事実として配信することが当たり前になることだろう。
実際、この10年ほどの間に、私が個人的に自前のクラウド領域にクリップしておいた「ライター」をめぐる事件簿は、どれもこれも、この稼業の未来を悲観させる出来事ばかりだ。
いくつか列挙してみる。
- 自分は、一定のタイミングで、ライターに理不尽なダメ出しをする。理由は彼らを現状に安住させないためだ。ライターは必死にさせないといけない……という意味のブログ記事を書いて炎上したWeb媒体の編集者がいたよ。
- とある大手出版社の社員編集者が「ライター志望の若い人」に「どんな勉強をすれば良いのか」を尋ねられた際に「人柄を良くしましょう」と答える旨をツイートした。その辣腕編集者氏はまた、「実力勝負じゃないんですか」という若いライター志望の人間の返しに「その勝負の舞台に何回上がれるのかを決めるのが人柄です」と答えたのだそうだ。
- ながらくWebマガジンの編集長をつとめ、自身もライターとして活躍しているさる業界人が、ライター志望の若者へのアドバイスとして、「ギャラ交渉はしないほうが良い」という旨の文章を書いて有料公開している。
- 自ら「天才編集者」を名乗る幻冬舎の箕輪厚介氏による女性ライターへのキス強要未遂&ギャラ踏み倒し事件。
これらのうち、2と3は、失礼な決めつけである一方で、親切なアドバイスでもある。
ここが評価のむずかしいところだ。
というのも、現実問題としてライターが直面している生存のための競争は、文章の巧みさを競うステージではなくて、サーカスの動物が強いられている火の輪くぐりに似た、コネクション獲得のためのサービス合戦だからだ。
であるからして、私は、以上に列挙した編集者によるライターへのパワハラに見えるこれらの案件は、個々の編集者の資質や心がけに由来する暴挙であるよりは、衰退産業の内部で必然的に勃発している崖っぷち背中押し事案なのだと思っている。より端的な言い方をすれば「貧すれば鈍する」ということだ。
われわれは、小さくなったパイを切り分けて食いつなぐべく、業界をあげた「口減らし」を敢行している。そして、縮小局面での競争に従事する末端のメンバーは、当然の帰結として、奴隷的な条件闘争を強いられることになる。
というよりも、「競争」という、この一見もっともらしく見える単語自体が、恥知らずのまやかしなのだ。「競争」なる概念は、ネオリベ論者が弱い立場の人間を淘汰する時に持ち出す草刈り鎌に過ぎない。
あるいは、本当の競争はクリエイターを使役する立場に立てるかどうかをめぐる争いとして、就活の時点ですでに決着しているという言い方をしても良い。
ライターが雑誌の掲載枠や連載枠を奪い合っている現実は出入りの業者が地方自治体の公共事業の受注枠のためにお役所の玄関に行列している姿と変わらない。つまりわれわれは買い叩かれている。
そしてこの構造は、筋目のお旗本が、仕官を求める食い詰め浪人を城中に呼びつけて嘲弄していた時代から毛ほども変わっていないのだ。
そもそも、件の社員編集者氏は、若いライター志望者による勉強法の質問が「おべっか」であることに気づいていない。このこと自体がどうかしている。こんな見え透いたやりとりは、マトモな神経を持った大人なら、恥ずかしくてツイートできないはずなのだ。
ちなみに私はライターの仕事をはじめて40年近くになるが、これまでに若いライターから文章に関する上達法や勉強法を尋ねられた経験は一度たりともない。当たり前の話だ。文章の書き方について他人に教えを請うような人間は、その時点でライター失格ということになる。これは技巧の問題ではない。覚悟の問題だ。
ギャラ交渉の話をすれば、実際のところ、「ギャラ交渉をしないほうが仕事をもらいやすい」
ことは、非常に残念なことだが、ほぼおっしゃる通りの事実だ。
発注側の編集者にしてみれば、文句を言わず、質問もせずに、ただただ機嫌よく働く都合の良いライターのほうが使いやすいに決まっている。
ということは、替えのきかない飛び抜けて秀逸な原稿を書くライターでない限り、ギャラ交渉はしないほうが良いに決まっているということだ。
ちなみに、もし仮に「替えのきかない飛び抜けて秀逸な原稿を書くライター」などという人物が実在するのだとしたら、その彼は、そもそもギャラ交渉をする必要を持っていない。
そして、これがどうにもなさけない事実なのだが、優秀であれ凡庸であれ、現状の出版業界には、ライター側からのギャラ交渉によって原稿料が上下するような余裕が、そもそも残っていないのである。
建前論を申し上げるなら、ギャラ交渉をしないライターが珍重され、誇りを持って条件闘争をするライターが煙たがられているこの業界の現状は、絶対に改められるべきだ。そして、ライターの側が社員編集者優位の奴隷交渉に甘んじている限り、お仲間コネクション万能の退嬰的かつ前時代的な出版業界の閉鎖体質が永遠に変わらないこともその通りだ。
しかし、われわれの業界が、負のスパイラルの中で互いの足を引っ張ることによってしか利益を確保できなくなっていることもまた事実ではあるわけで、だとすれば、ライターに残された選択肢は、地道に原稿を書くことだけなのである。
わが国のクリエイター市場では、芝の上を走る選手よりも、ホペイロ(用具係)のほうがより有利な地位を占めている。なぜならホペイロが正規労働者である一方で、アスリートは非正規の出入り業者に過ぎないからだ。
それゆえ、たとえば、雑誌の連載枠は業界の中で力を持っている有力な作家先生を慰安するための交渉の窓口に使われるか、でなければ、テレビ文化人やお笑い芸人の文化的な虚栄心を満足させるための、阿片窟のような場所になっている。
いずれにしても、読者のための空間ではない。
そして、当然の展開だが、名前のある雑誌の連載コーナーに掲載されている文章の多くは、毛ほども面白くない。当然だ。雑誌の編集者は、この20年ほど、本職のライターが書いた巧緻な原稿よりも、知名度のある素人がしゃべり散らすありきたりな文章を珍重する方向で雑誌を編集しているからだ。
「天才編集者」などという奇矯な単語が活字として印刷されてしまっていること自体、黒子が六方を踏みホペイロがヒーローインタビューに出てくるこの国の出版界の末期症状を象徴していると、そう申し上げなければならない。
案の定、書き始める前に予想していた通り、今回のテキストはほとんどまったく私自身の愚痴に着地してしまった。
愚痴を吐き出したついでに、偏見を述べておく。
個人的に、才能という言葉の実質的な意味は「ばらつき」なのだというふうに思っている。
もっと言えば、才能は、「不安定さ」それ自体を意味している。
ということは、つまり、時に卓越した文章を書くライターは、別の時にはゴミみたいな文章を書く人間でもあるということだ。また、その彼は、炎上ネタに手を突っ込むことを辞さない危険人物でもあるということである。
私たちの業界が、いつまでも才能を愛する業界であってほしいものだ。
期待ではない。
これは祈りだ。
(文・イラスト/小田嶋 隆)