自分で荷物を増やす人々
最近ではあまり聞かない言葉で、私もその意味を調べたことはないが、「ミニマリズム」という思想がある。「最小主義」とでも訳できる言葉かな、と想像しているのだが、これは東洋的な叡知に通じるような気がする。
まあ、要は、「自分の能力で背負える以上の荷物を持たない」主義だ、と言えるかと思う。
たとえば、「家計」というものがある。日本では家の切り盛りは一家の主婦の役目であり、それなら家の財布は主婦が管理するのが当然だろう。で、それが普通だった。ところが、欧米では妻が家計を預かることはない。妻は必要なカネを夫から貰うのが普通であるわけだ。そうなると、妻は家の切り盛りに真剣になれるはずがない。つまり、妻の役目は夫の飾り、人形でしかなくなるわけだ。イプセンの「人形の家」とは、そういう含意があるのではないか。封建時代の日本での女性の地位は低い、忍従の人生だ、というのも事実だろうが、その反面、家計の支配者でもある、というところになかなか深い知恵を私は感じるわけである。夫の側から見ても、外で働くだけでなく面倒臭い家計の切り盛りまでやるのは苦労を増やすだけである。家計を預かることで妻には自分が家の実質的な柱であるという誇りが生まれたのではないか。こうした役割分担が封建時代の日本の家を維持してきた叡知だろう。
などと考えたのは、ずいぶん遅ればせながら有名な「逝きし世の面影」を今読んでいる途中で、ここまでの内容で一番印象的だったのは、江戸末期から明治初期までの日本は「下層階級の人々が(むしろ武家階級より)幸福だったこと」であり、「日本の家の中には家具らしい家具がまったく無かった」ことである。この二つは通底しており、それが「余計なものを持たない方が人間は幸せになれるのではないか」というミニマリズムの思想なのである。
たとえば、私は結婚賛成論者だが、妻を持つ能力の無い男は妻を持たないほうが幸福である、ということだ。仕事の能力の低い人間は、自分にできる最低限の仕事を探してそれを背負うのが幸福である、ということだ。もちろん、それでは金持ちにはなれない。しかし、「余計なものを持たないほうが幸福だ」というテーゼに従えば、カネなど無くても幸せにはなれるということである。結婚願望の強い人は、なぜか、結婚したら幸福になれるという前提で考えるが、はたしてそうか。いや、私自身は結婚して良かったと思っているが、結婚して不幸になる人間はゴマンといるのである。同様に、地位が上がって不幸になる人も、金持ちになって不幸になる人もいるのではないだろうか。
まあ、要は、「自分の能力で背負える以上の荷物を持たない」主義だ、と言えるかと思う。
たとえば、「家計」というものがある。日本では家の切り盛りは一家の主婦の役目であり、それなら家の財布は主婦が管理するのが当然だろう。で、それが普通だった。ところが、欧米では妻が家計を預かることはない。妻は必要なカネを夫から貰うのが普通であるわけだ。そうなると、妻は家の切り盛りに真剣になれるはずがない。つまり、妻の役目は夫の飾り、人形でしかなくなるわけだ。イプセンの「人形の家」とは、そういう含意があるのではないか。封建時代の日本での女性の地位は低い、忍従の人生だ、というのも事実だろうが、その反面、家計の支配者でもある、というところになかなか深い知恵を私は感じるわけである。夫の側から見ても、外で働くだけでなく面倒臭い家計の切り盛りまでやるのは苦労を増やすだけである。家計を預かることで妻には自分が家の実質的な柱であるという誇りが生まれたのではないか。こうした役割分担が封建時代の日本の家を維持してきた叡知だろう。
などと考えたのは、ずいぶん遅ればせながら有名な「逝きし世の面影」を今読んでいる途中で、ここまでの内容で一番印象的だったのは、江戸末期から明治初期までの日本は「下層階級の人々が(むしろ武家階級より)幸福だったこと」であり、「日本の家の中には家具らしい家具がまったく無かった」ことである。この二つは通底しており、それが「余計なものを持たない方が人間は幸せになれるのではないか」というミニマリズムの思想なのである。
たとえば、私は結婚賛成論者だが、妻を持つ能力の無い男は妻を持たないほうが幸福である、ということだ。仕事の能力の低い人間は、自分にできる最低限の仕事を探してそれを背負うのが幸福である、ということだ。もちろん、それでは金持ちにはなれない。しかし、「余計なものを持たないほうが幸福だ」というテーゼに従えば、カネなど無くても幸せにはなれるということである。結婚願望の強い人は、なぜか、結婚したら幸福になれるという前提で考えるが、はたしてそうか。いや、私自身は結婚して良かったと思っているが、結婚して不幸になる人間はゴマンといるのである。同様に、地位が上がって不幸になる人も、金持ちになって不幸になる人もいるのではないだろうか。
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