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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

人が恋に落ちる理由

「紙屋研究所」の或る記事の一部で、途中を大幅に省略。
全体としてはいつもの通り素晴らしい評論なのだが、


「剣の舞」では、ハルナが、剣の師匠である文五郎に淡い恋心をいだくのであるが、こういう描写は全然ダメ。あまりにもありきたりすぎるというか、そういう細やかな抒情を描くのにまったく向いていない。なんで文五郎をハルナが好きになるのか、わかんないんだもの。


という発言には私は頭を捻る。そもそも、この作品でハルナが文五郎を好きになる部分を描写する気が作者にはあっただろうか。またこの作品にそのような描写が必要だっただろうか。
後者の問いについては、私は「まったく不要だろう」と思う。なまじそういう描写があれば、別の作品になり、全体のトーンも変わってしまうだろう。要するに岩明均の漫画ではなくなるわけだ。岩明の漫画を愛するファンは岩明のそういうトーンを好きなのである。
たとえば「寄生獣」で主人公を好きになるヤンキーの女子高生が出てくるが、彼女が主人公を好きになる明確な理由があっただろうか。だが、そのヤンキーの恋と死は「正ヒロイン」よりも鮮烈な印象として残るのではないか。

そもそも、人は何か明確な理由があって人を好きになり恋をするのだろうか。

もしそうであるならば、女子高生が冴えない高校教師に恋をする(「めぞん一刻」)ということは不自然な話だろうが、人は顔にだけ恋をするのではないし、頭の良さ、スポーツができる、などは「大衆的人気」は得ても、それは恋の「入口」になることもあるだけの話ではないか。
まあ、そうは言っても私自身、恋をした経験などほとんど無いので、これはフィクションや、傍観者として眺めた現実世界の多くの「恋愛現象」から帰納しての考えにすぎない。

要するに、たとえばゴッホの絵の中に古典派的な端正な描写が混ざればそれは異物にしかならないということである。岩明は(絵そのものがそうだが)本質部分以外を省略することでクールな残酷美や感動を生み出す作家なのである。




岩明均『雪の峠 剣の舞』




雪の峠・剣の舞  2つの短編、というのか、中編をおさめる。

 「雪の峠」は関ヶ原で西軍に着いたために石高を3分の1に減らされたうえ、常陸から出羽(秋田)へ移封された佐竹家の話。「剣の舞」は、戦勝の勢いで民家で略奪を働く武士たちに拉致・輪姦され、家族も皆殺しにされた少女が、男装して武術を修め、復讐する話。

 岩明均は、よい要素が決まっている。換言すると、岩明の作品で「良い」と思える要素は次の3つに限定されている。
  1. 突然の暴力を、人間の肉体が裁断される瞬間で静止させてキャプチャーし、壮絶な緊迫感を生み出す。
  2. 少女のエロス。つか、岩明の少女への欲望。
  3. 小賢しいともみえる知恵者が、世間に評価されない知性を発揮。

     ホントに決まってんだ。ぼく的には。


     (1)(2)(3)という具合に、岩明にとって「いい要素」が決まっているということは、逆にいうと、それ以外がダメだ、ということなのだ。

    (中略)


     「剣の舞」では、ハルナが、剣の師匠である文五郎に淡い恋心をいだくのであるが、こういう描写は全然ダメ。あまりにもありきたりすぎるというか、そういう細やかな抒情を描くのにまったく向いていない。なんで文五郎をハルナが好きになるのか、わかんないんだもの。

     ことほどさように、岩明という作家は得意領域が限られている。
     しかし、その得意領域が狭いことがアダになっているかというと、ちっともそんなことはなく、それを手をかえ品をかえ出されても飽きがこない、不思議な作家なのである。



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