「絶望」について
木田元によれば、キルケゴールは
1:絶望は死に至る病である。
2:絶望とは自己分裂にほかならない。
3:自己とは可能性と必然性の統合である。
4:必然性を忘れ抽象的な可能性にばかり溺れると「可能性の絶望」を病む。
5:いっさいの夢を失い、すべては必然とあきらめ、日常性に埋没して生きるのは「必然性の絶望」を病むことである。
6:絶望できること、自己分裂しうることは人間の特権であり優越性である。
と言っているらしい。
この中で、「絶望とは自己分裂にほかならない」というのが最初意味が分からなかったが、こうして書いていると、理解できたように思う。これは3「自己とは可能性と必然性の統合である」に基づいているのだろう。つまり、自己分裂とは「自己の可能性と必然性の間で自分自身が分裂する」ということかと思う。「自分自身が分裂する」とは、要するに「答えが分からず、精神が混迷すること」と言い換えれば、これは青年期には誰でも経験することだ。
しかし、封建時代の百姓は、あるいは侍でも誰でも、この種の精神の混迷を経験しなかったはずだ。つまり、これは近代の病なのである。それは、近代が人間にその「可能性」を教えたからであり、それまでの人間は「必然性」の中で生きてきたのである。百姓は百姓として、侍は侍として、自分に定められた役割(人生行路)をそのまま受け入れたはずだ。そこには定められた役割以外の「可能性」は無いのである。だから、悩むこともない。悩むのは「可能性があるから」ということになる。
同じキルケゴールの著書の題名を借りれば、「あれかこれか」という選択可能性こそが人間を自己分裂に追いやるわけだ。
したがって、6「絶望できること、自己分裂しうることは人間の特権であり優越性である」とは、近代の人間の優越性を誇示した、あるいは哲学者の自惚れの言葉と言っていいかと思う。
念のために「絶望」を定義すれば、当然「希望が絶たれること」だろう。絶望の大前提は希望が存在したことである。それがたとえ空想にすぎなくとも、希望がまず存在し、その希望が絶たれた時に人間は絶望する。それがはたして人間の優越性を示すものかどうかは私は分からない。まあ、その絶望から新たな一歩を踏み出す契機になった場合にのみ、その絶望には意義があったとしか言えないのではないか。
それより大事なのは、「まず希望がそこにあった」ことではないか。その希望は、たとえそれがただの妄想でも、絶望に終わっても、はたして無意義だろうか。
ある女性にまったく無関心な状態でその女性を見ても、人(男)は何も特別に感じない。その女性に恋愛感情を持った時に、その女性は彼にとって「特別な存在」になるのである。そこに様々な希望(願望)が当然生じる。その希望が完全に絶たれた時に彼は絶望する。
さて、この経験は大きな不幸かもしれないが、不幸なだけだろうか。
彼がその女性を思って様々な希望を抱いていた間、彼はこの上ない至福の時を過ごし、あるいはそれは彼の一生のその他の時間を上回る価値を持っていたかもしれない。それが単なる妄想だとしても、その妄想は実際にその他の現実人生の時間より価値があったのかもしれないのである。
1:絶望は死に至る病である。
2:絶望とは自己分裂にほかならない。
3:自己とは可能性と必然性の統合である。
4:必然性を忘れ抽象的な可能性にばかり溺れると「可能性の絶望」を病む。
5:いっさいの夢を失い、すべては必然とあきらめ、日常性に埋没して生きるのは「必然性の絶望」を病むことである。
6:絶望できること、自己分裂しうることは人間の特権であり優越性である。
と言っているらしい。
この中で、「絶望とは自己分裂にほかならない」というのが最初意味が分からなかったが、こうして書いていると、理解できたように思う。これは3「自己とは可能性と必然性の統合である」に基づいているのだろう。つまり、自己分裂とは「自己の可能性と必然性の間で自分自身が分裂する」ということかと思う。「自分自身が分裂する」とは、要するに「答えが分からず、精神が混迷すること」と言い換えれば、これは青年期には誰でも経験することだ。
しかし、封建時代の百姓は、あるいは侍でも誰でも、この種の精神の混迷を経験しなかったはずだ。つまり、これは近代の病なのである。それは、近代が人間にその「可能性」を教えたからであり、それまでの人間は「必然性」の中で生きてきたのである。百姓は百姓として、侍は侍として、自分に定められた役割(人生行路)をそのまま受け入れたはずだ。そこには定められた役割以外の「可能性」は無いのである。だから、悩むこともない。悩むのは「可能性があるから」ということになる。
同じキルケゴールの著書の題名を借りれば、「あれかこれか」という選択可能性こそが人間を自己分裂に追いやるわけだ。
したがって、6「絶望できること、自己分裂しうることは人間の特権であり優越性である」とは、近代の人間の優越性を誇示した、あるいは哲学者の自惚れの言葉と言っていいかと思う。
念のために「絶望」を定義すれば、当然「希望が絶たれること」だろう。絶望の大前提は希望が存在したことである。それがたとえ空想にすぎなくとも、希望がまず存在し、その希望が絶たれた時に人間は絶望する。それがはたして人間の優越性を示すものかどうかは私は分からない。まあ、その絶望から新たな一歩を踏み出す契機になった場合にのみ、その絶望には意義があったとしか言えないのではないか。
それより大事なのは、「まず希望がそこにあった」ことではないか。その希望は、たとえそれがただの妄想でも、絶望に終わっても、はたして無意義だろうか。
ある女性にまったく無関心な状態でその女性を見ても、人(男)は何も特別に感じない。その女性に恋愛感情を持った時に、その女性は彼にとって「特別な存在」になるのである。そこに様々な希望(願望)が当然生じる。その希望が完全に絶たれた時に彼は絶望する。
さて、この経験は大きな不幸かもしれないが、不幸なだけだろうか。
彼がその女性を思って様々な希望を抱いていた間、彼はこの上ない至福の時を過ごし、あるいはそれは彼の一生のその他の時間を上回る価値を持っていたかもしれない。それが単なる妄想だとしても、その妄想は実際にその他の現実人生の時間より価値があったのかもしれないのである。
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