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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「天皇」をなぜ「スメラミコト」と言ったか

まだ思想が熟していないのだが、「天皇」の和語を「スメラミコト」というのを、学者の多くは「澄む」と「御言葉」が語源だとみなしているようで、私はそれに違和感を持つ。
そもそも、「澄む」が語源なら、「スメラ」の「ラ」は何なのだ。「澄む」の活用語尾に「ら」など存在しないだろう。落語の「ちはやふる」ではないが、「ら」くらいまけろ、と言われても、「いや、まからねえ。説明しろ」である。
それに、「ミコト」の語源が「御言葉」だというのもかなり怪しい。「天(神)の御言葉を伝える」存在だというのなら、天皇はただの「ミコトモチ(国司)」(天皇の御言葉を持ち伝える者)の同類ではないか。「ミコトモチ」の「ミコト」と「スメラミコト」のミコトが同じだとは信じがたい。そもそも、日本書紀や古事記で天皇は神意を問うのに臣下や巫女などのアドバイスを受けており、天皇自身に天の御言葉が下る例は少ないのではないか。いや、「天皇」とは、天の代理人ではなく、「天皇自身が天の王である」という意味だろう。まあ、「天」とは何か、というのはまたいずれ考えたい。
「み」が「御」であるのは最上位の存在への敬意を示す意味で妥当である。
私は、「こと」は「言」ではなく、「事」ではないか、という可能性を考えている。
「物」と「事」の違いは、「物」が物質的存在であるのに対し、「事」は「行為、力の作用」の意味合いが強いことだと思う。言い換えれば「力」である。天皇の「霊力」(と仮定される権威)を「こと」と言ったのではないか、というのが私の考えだ。
で、「すめら」に戻ると、これは今は不人気な説だが、一部で言われるように「すべる(統治する)」が天皇の本質を表すものとして最適なのではないか。ちゃんと「ら行」の語尾もある。「め」は「べ」の音便変化だろう。
つまり、「この世を統治なさる偉大なお力」というのが「すめらみこと」の意味だったのではないか、というのが私の考えである。
ただし、「皇祖」のことを「すめろぎ」と言うのはなぜか、それはまだ考えていないが、「ぎ」は「基」ではないか、という気もする。そのころには漢文も知られていたから、「基」が音読みされてもおかしくないと思う。
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