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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「いのち」の大安売り

昔読んだ「俳句 七合目からの出発」とか何とかいう、初心者向けの俳句の指南書の中で唯一覚えているのは、初心者の作る俳句の8割かそこらに必ず出て来るのが「いのち」という言葉だということだ。つまり、その言葉を入れると深遠な人生観照の雰囲気が出て、コンテストで入選しやすくなるという下品な常識が俳句入門者の間にはあるということだ。
丸谷才一が書いていたが、久保田万太郎の

「湯豆腐やいのちの果ての薄明かり」

という俳句が昭和の俳句の最高峰だと丸谷は断言している。ところが、私にはまったくそうはおもえないのである。湯豆腐と命と薄明かりの間に何の関係があるのか。寿命が尽きようとしている時に湯豆腐が食卓に上って嬉しいということか。では、「薄明かり」は何か。湯豆腐が薄明かりなのか。湯豆腐が自分の生命をつなぐ薄明かりなのか。人生とは湯豆腐なりという警句か。まあ、いかにも謎めかして深遠ぶった嫌な句だと思う。
それに比べると、同じ久保田万太郎の

「竹馬やいろはにほへと散りじりに」

は文句なしの名句だと思う。幼年期の思い出を「竹馬」と「いろは歌」で重ねて、さらに幼友達との離別を「いろはにほへとちりぬるを」を下敷きにして「散りじりに」と結ぶ手際は天才的である。


(以下「小田嶋隆」のツィート)

ナレーターの問題よりも、NHKのドキュメンタリー&自然番組は、とにかく放送原稿が陳腐すぎる。「命をつなぐ」「命の営み」「天空の……」と、印象鮮烈な常套句を並べればOKだと思っている。取材&映像チームは健闘しているのに、最後に原稿を書くのバカなボスが番組を台無しにしている。
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