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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

人間は「ニンゲン」か「ジンカン」か

わりと新しめの作家(だろうと思う)何人かの短編アンソロジーをトイレに置いて数行ずつ読んでいるのだが、その中に奥田英朗の「ここが青山」という作品があり、その中に何度か「人間いたるところ青山あり」という言葉がでてきて、会社が倒産した主人公を周囲の人間が「人間いたるところ青山あり」だから落ち込むな、と励ますのだが、それが軒並み「ニンゲン」あるいは「アオヤマ」と読み間違うというギャグである。もちろん、これは「ジンカンいたるところセイザンあり」で、「人間」は「人の世」、「青山」は「墓場」の意味で、「骨を埋める場所などどこにでもあるから勇気を出して立ち向かえ」という意味だ。
確か、幕末の何とかいうお坊さんの漢詩で、昭和初期くらいまでは人口に膾炙した言葉である。ついでに言えば、この「人口」は人口動態の人口ではなく、「人の口」であり、ナマス(肉の刺身)や焼き肉(炙り肉)のように人の口に親しまれている、つまり誰でもよく使う言葉の意味である。
で、その元の漢詩全体をうろ覚えで書く。
「男児志を立てて郷関を出づ。学もし成らずんば死すとも帰らず。骨を埋むるに豈(「何ぞ」だったか?)墳墓の地を期せんや。人間至るところ青山あり」だったと思う。「墳墓の地」は故郷の墓地で、青山は墓場の意味というより、むしろ「骨は山にでも捨てればいい」というのが原詩の意味で、青山を墓場の意味に使うようになったのは、この詩が起源ではないかと私は思っている。
さらに言えば、「人間」をhumanの意味で使うようになったのは明治以降のことだという説があり、すると、歴史ドラマなどでよく信長が「人間五十年」と謡って舞うのを、「ニンゲン五十年」と発音させるのは間違いではないか。つまり、「人として生まれて人の世に生きるのはせいぜい五十年のことだ」ということで、「ジンカン五十年」が正しいのではないか。しかし「ニンゲン五十年」があまりに有名になったので、延々とそう読まれているのだろう。なお、昔は人間は単に「人(ヒト)」と言われたわけだ。確かに、「人間(ニンゲン)」の「間」は、人そのものを表すには不要なはずである。
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